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なぜ環境は護らねばならないか?—いま求められる新たな論理—

内藤 正明

 昨年、環境庁のM局長から“なぜ環境は護らねばならないか?”という大変難しい(?)質問を受けた。

 これまで我々は、環境を護るべきことは自明として、“いかに護るか”を考えてきた。たしかに、「深刻な公害を防止し、誰もが認める貴重な自然公園を保護する」これまでの環境行政の範囲では、これを護るのに“何故”は不要だった。しかし近年、環境問題の対象範囲が大きく拡がったが、その新たな部分については、何故、どこまで護るべきかという論理がまだ確立していないということである。たとえば今、“東京湾開発”が話題になっている。これに対し環境側からも提言が必要として、多くの関連する検討がなされているが、開発すれば得られるであろう経済便益よりも、保全することの価値が高いという説得性ある論拠づくりは、必ずしも容易ではない。一つのアプローチは東京湾が持つ多様な機能の内、貨幣単位で見積もれるもの(リクレーション、漁獲など)は経済価値によってその重要性を示すことである。ただし環境側から見てさらに問題なのは、干潟やその生態系、歴史遺跡など後の時代のための環境資源である。この価値を正しく評価する考え方と手法を早急に具体化しなければ、それらを護るのが難しいことは、石垣島の例からも推測される。

 世代にまたがる価値を評価するのは現在の経済学の枠組みでは限界がある。そこで今必要なのは、これが正しく世の認知を得るような新しい“社会規範”を見つけることである。経済における“効率と公正”や政治における“自由、平等”などは今日規範として一応定着している。これに対し、“environmental ethic(環境倫理)”と今改めて呼ばれているものは何だろう。

 以下は現時点の私見であるが、“永続性、安定性”というものをそれとして、その具体的表現として“環境素材の永続性”を表わす適切な指標を定義できればということである。そうすればかねて提唱されつつ定着しない、GNPに代わるストック指標が、この地球環境の危機意識を契機に実現し、世の中の方向が基本的に変るかもしれない。

 以上のような環境問題に対する新しい意識の高まりは、15年の節目を迎えた国公研の方向にも新たな展開を迫るように思うが、どうだろう。

(ないとうまさあき、総合解析部長)