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2022年6月1日

西岡秀三・元理事の「KYOTO地球環境の殿堂入り」について

西岡秀三・国立環境研究所元理事(現・地球環境戦略研究機関参与)が、「KYOTO地球環境の殿堂」の第13回殿堂入り者として選ばれました。

西岡秀三先生の写真

 西岡秀三先生は、東京大学大学院数物系研究科機械工学専攻博士課程修了(工学博士)ののち、民間企業を経て1979年に国立環境研究所(当時・国立公害研究所)に総合解析部主任研究官として着任されました。国立公害研究所時代には、環境指標交通公害政策決定支援システムなどの研究に従事されたのち、1990年10月1日の地球環境研究センターの発足とともに同センター総括研究管理官として、当時ますます重要性の高まっていた地球規模の環境問題、特に地球温暖化問題への統合的、分野横断的な研究を推進されてきました。独立行政法人となった2001年から初代の研究担当理事を6年間務める傍ら、2004年度からは環境省の環境研究総合推進費戦略的研究開発プロジェクト「脱温暖化社会に向けた中長期的政策オプションの多面的かつ総合的な評価・予測・立案手法の確立に関する総合研究プロジェクト(2050年脱温暖化社会プロジェクト、S-3)」(2004年度〜2008年度)のプロジェクトリーダーとして、都市、IT社会、交通などの技術社会面の予測も踏まえたわが国の中長期温暖化対策シナリオ(低炭素シナリオ)の研究を推進されてきました。これら成果も含め、中央環境審議会地球環境部会における、将来の削減目標や温暖化対策を検討する複数の委員会において、委員長の立場として我が国の脱炭素行政の方向性をとりまとめ、温暖化研究の社会実装も実践されてこられました。

 また、2005年度から2007年度には、日英共同研究プロジェクト「低炭素社会の実現に向けた脱温暖化2050プロジェクト」(Japan - UK Joint Research Project Developing visions for a Low Carbon Society through sustainable development)の共同議長として国際的な低炭素社会研究の加速化に貢献されてきました。さらに、欧州の研究機関と連携してLCS-RNet(低炭素社会国際研究ネットワーク)を、アジアの研究機関と連携してLoCARNet(低炭素アジア研究ネットワーク)を立ち上げ、世界やアジアにおいて低炭素、脱炭素研究の深化とともに社会実装に向けた取り組みも志向されてきました。加えて、この間、1988年から2007年には気候変動に関する政府間パネル(IPCC)にも関わってこられ、1990年に発表された第一次評価報告書(FAR)での第5章共同議長・主執筆者、第6章貢献者、1995年に発表された第二次評価報告書(SAR)での第26章の主執筆者など、多くの貢献をされてこられました。

 このように地球環境研究や低炭素社会・脱炭素社会研究に大きな貢献をされてきた西岡秀三先生が、今般KYOTO地球環境の殿堂入り者として決定されたことは、脱炭素研究も含めた持続的な地球環境への移行に向けた研究の取り組みを進める所員においても大きな励みであり、これからも人びとが健やかに暮らせる環境をまもりはぐくむための研究を推進して参ります。

【KYOTO地球環境の殿堂】
・公式Webサイト
 https://www.pref.kyoto.jp/earth-kyoto/
・第13回殿堂入り者の決定について
 https://www.pref.kyoto.jp/earth-kyoto/dendo/13th-dendo.html

 表彰式は、2022年11月14日(月曜日)午後に、国立京都国際会館 アネックスホール(京都市左京区宝ヶ池)にて行われます。詳細は、上記Webサイトをご覧ください。

西岡秀三・元理事より

皆さま

 私が今般Johan Rockström氏、村上一枝氏とともに、本年度の「KYOTO地球環境の殿堂」入り者に選ばれたことを報告させていただきます。この殿堂は「『京都議定書』誕生の地である京都の名のもと、世界で地球環境の保全に多大な貢献をした方の功績を永く後世にわたって称えるものです。」とあり、身に余る光栄ですが謹んで殿堂入りさせていただくことにしました。

 選ばれた理由としては、①30年にわたるIPCCUNEP等での活動を通じて、日本の地球環境研究(主に気候変動分野)の国際貢献を推進 ②洞爺湖G8サミットで日本が提唱した「国際低炭素社会研究ネットワーク構想」の運営により、アジア各国をはじめとする国内外の気候政策の科学基盤構築に貢献したこと、とされています。

 このお話を頂いたとき、一瞬戸惑いを感じました。確かに私はいくつかやりたいこと、やらねばならないこと、やれることをやってはきましたが、個人としてはとてもそんな大それたことをやったなんて、まったく身におぼえはありません。一番力を注いだのは日本の気候変動政策の科学的基盤を固めることでしたが、そんなことは多くの研究者・政府・NPOの皆さんもやってこられたことです。京都議定書誕生というならば、あの時日本の削減量をめぐる熾烈な論議への対応に数週間不眠不休で対応していた故森田さんや京都の松岡さんではないか。なぜ今わたくしごときが?の納得なしに頂くのは何となくこそばゆい。

 だけど、選んでいただいた理由が、地球環境問題解決に日本の研究者コミュニティが何かの前進をもたらしたということであったら納得できる。その成果のほとんどは私の職場であった国立環境研究所や地球環境戦略研究機関を始めとする多くの研究機関の志ある優れた研究者や職員とのチームワークの結果である。だから、この名誉は、地球環境問題というとてつもなく大きい挑戦に勇気・覚悟・喜びをもって飛び込んでこられたそうしたすべての皆さまに帰するものであり、だれかが代表して受けてしかるべき、とひとり勝手に納得して、11月の表彰式に行くことにいたしました。

 1990年代は地球環境の大転換・疾風怒濤の時代でした。国立環境研究所がその魁として日本の地球環境研究コミュニティをリードし、日本の地球環境政策の科学的基盤を築き上げ、その結果が世界政策面や研究協力面での国際貢献へもつながったことは確かです。それは研究所が時代の要請にきちんと応え、与えられた役目を十分に果たしたという、まともなことをまともにやってきただけの話でもあります。

 まともなことをまともに出来たのはなぜでしょう。環境省はまだ環境庁でしたから、地球環境分野で省庁横断政策を任されており、国立公害研究所が国立環境研究所に変わる時をとらえて1990年地球環境研究センターを設立し、同時に省庁横断型地球環境研究総合推進費の研究資金を用意してくれました。国立環境研究所は1974年、その発足時から、大気、水土壌、生物、人間健康など、自然環境研究部門のほかに、人間社会や政策を扱う総合解析部が設けられ、分野横断型地球環境研究遂行の土台を既に持っていました。

 それだけでなく、研究所では大山初代所長時代からはぐくまれた、自由闊達な研究の雰囲気、科学に真摯に向き合う探求心、環境という新たな分野を切り開くフロンテイア精神、専門分野にとらわれない問題解決への意気込みが研究者・職員にみなぎっていました。
発足当時のセンター定員はほんの数人でしたが、各部門からの併任研究員が率先して日本の各学界での研究組織化をリードしてくれましたし、センターは真鍋先生にもお力を頂きスパコンをいれ、共同利用での気候モデル開発・推進費企画への参画、波照間・シベリア航空機・衛星観測、GIO/GCP等を通じて、日本の地球環境政策を支援する科学的基盤を作り上げてきました。地球環境センターニュースは、研究者、政策担当者、市民に地球環境の情報をとどけ、日本の地球環境研究コミュニティをつなげてきました。

 1990年、初代地球環境研究センター長市川副所長の、地球環境問題は「自立分散ネットワーク」で取り組むべし、という考えで地球環境センターの軸ができました。それは「地球環境問題は一個人の大発見、一学問分野の知見だけで解決するものではない。環境は優れて地域的であり、解決は分散した世界中の現場でなされる。環境科学は解決してナンボの実学である。バラバラに存在する科学と地域を研究組織と政策で結び付け、解決にいたらしめるには、どういう仕組みが必要なのか。研究・政策・地域の主体それぞれが自立して己の分にベストを尽くす。さらに、それらを集約し統合し人類の持続可能性に向けてひとつの強い力にまとめ上げる多重のネットワーク型機能組織が不可欠であり、それが新センターが目指すベき姿である」、ということでした。

 こうした皆様のおかげで、1990年代には日本の地球環境政策の科学的基盤ができてきて、世界の政策にも貢献できるものになってきました。1990年頃から始まっていた。AIM グループでの研究成果がなかったら、日本の京都議定書6%の削減目標の科学的根拠はあやふやなものだったでしょうし、2008年の洞爺湖サミット前の福田首相の「日本は60-80%削減の低炭素社会をめざす」宣言はできなかったでしょう。意気盛んな研究者たちが国際機関や欧米・アジア諸国との共同研究などに飛び出し一挙に国際貢献も増えました。

 地球環境問題が認識されてきた1990年頃から、科学や研究に関する認識や周辺状況が大きく変化してきたように感じます。人類の生存基盤である安定な気候という世界の共有財を守る、しかもそれを危うくしているのは人類自身、という状況で、科学の推進力は自然への好奇心だけでなく、人類持続への貢献という動機が加えられ、論文評価規準もかわる、事実の確認だけでなく警告のための予測が必要になる、問題解決に向けて競争だけでなく協力が進む、遅れがちな論文審査をまたずに速報論文が掲載される、研究者にも政策・社会への説明が要求されてきました。こうした中で、日本の研究コミュニティは自立分散ネットワーク型で新しい時代の要請に答えながら、地球環境研究分野を確立してきました。

 実際1990年代から始まった世界の地球環境研究組織は、デジタル化の進展にも助けられ、やはり「自立分散ネットワーク」で進められてきました。ICSUが音頭をとった様々な研究やキャパビルのネットワークができ、IPCCやIPBESのような科学による知識を集約し国際政策につなげる仕掛けなどで、多くの研究者と政策担当者のコミュニティが形成されてきました。これは最近のエネルギーシステム転換でのキーワードともなっていますから、市川方針はまさに先見の明だったと言えます。

 渦中にあるときは無我夢中でしたが、今になってみると、環境庁や研究所の諸先輩、勇気ある元気な研究者たちとのチームワークでやってきたことは、地球環境という人類の難題が科学とか研究とかにこれまでと違った意味合いをもたらしつつある時代での、まともなことのまともなやりかただったのでしょう。

 私は時の運に恵まれました。たまたま地球環境問題の夜明けの時代にわくわくする仕事とポジションを上層部の先輩たちから与えられたことです。1979年国立公害研究所に40歳近くで入ったのは公害がもうピークを過ぎようとする頃で、それぞれの分野の大御所が研究所にはきら星のごとくおられて、はて何でこれから飯を食っていけるのか考えあぐねていたときでした。ある日突然江上所長から5-60センチもある米国温暖化研究レポートが回ってきたり、環境省から橋本道夫先生のカバン持ちでIPCCへゆかないかの申し出を頂くとか、内藤部長からはあまり給与は上げられないが新しい地球環境研究センターの総括研究管理官をやらないか、とかのお誘いが舞い込んできました。

 その時、これは本来の科学のもつ真理探究という本道とはすこし異なった、新しい科学の役目や方法論を開拓できる先端的な仕事になる、自然の森羅万象、人間社会の魑魅魍魎すべてを対象に際限ない疑問に挑めるエキサイテイングな半生を過ごせそうだと飛び込んで、予想どおりに30年を楽しく過ごしてきました。1988年 UC Irvineにいた私は、Scripps 海洋研究所のCharles Keeling 博士のところに押しかけ、砂浜でのサンドイッチランチで1時間半ほど話し込んだことがありました。ハワイでの観測は、それぞれの専門家である先輩たちがそれぞれ好みのガスを抱え込んでしまっていて、残っていたのが二酸化炭素だけだった。これがわたしの幸運だった、と話してくれました。Late comer’s advantage はどこにでもあるんですね。

 「地球環境の殿堂」には、殿堂入り者からの寄贈品を陳列させていただけます。第一回殿堂入り者の真鍋さんのは、ふと思いついたアイデアのメモ一枚紙という事です。私は研究者60人のチームワークの成果である編著書「日本低炭素社会のデザイン」に、故森田恒幸さんへの献辞を書き込んで提供することにしました。これによって日本の地球環境研究基盤を築き上げた皆さまの栄誉が古都京都に永遠に残されることを共に喜びたく存じます。

 余談ですが、殿堂入り者は写真ではなく西陣織での肖像絵で展示されるそうです。西陣織の織屋の娘だった母親への遅れ遅れの親孝行になりました。これも皆さまのおかげです。ありがとうございました。

西岡秀三

地球環境研究は自立分散ネットワークのチームワークの図
地球環境研究は自立分散ネットワークのチームワーク