人工衛星が観測するクロロフィル蛍光を利用した陸域植生CO2吸収量推定
特集 温室効果ガスを「見る」ための科学
【環境問題基礎知識】
野田 響
陸域生態系は、人為的に排出されたCO2の約3割近くを植物の光合成により吸収する巨大なCO2吸収源です。また、植物の光合成により吸収されたCO2は、木材や繊維、食料、飼料などの形で人間社会に提供されています。光合成過程は気温や日射量、降水量などの気象条件の影響を強く受けるため、光合成量は温暖化の影響により大きく変動します。したがって、温暖化対策の緩和策・適応策の両面にとって、陸域生態系の光合成活性や、光合成量を正確に把握することが非常に重要となります。これまで、さまざまな観測手法とモデルなどにより、光合成量を推定する研究は盛んに行われてきました。中でも、人工衛星を活用したリモートセンシングは、広域の植生について観測できる上、繰り返し観測を行うことから、光合成量の空間的・時間的変動を理解するために広く利用されてきました。これらのリモートセンシングによる推定では、多くの場合、植生表面から反射された太陽光を分光放射計で観測し、その情報から、植生の構造(葉面積指数など)や生理的な性質(クロロフィル量など)などの光合成量を決定する要因についての値を得ます。そして、これらの値と気象データをモデルに入力することで光合成量を推定します。しかし、植物が高温、低温や乾燥ストレスに曝された時、光合成速度は非常に短時間で反応して変化するのに対して、従来のリモートセンシング手法で観測される植生構造やクロロフィル量は比較的ゆっくりとしか反応しないため、この方法では、熱波や寒波などに対する光合成の短時間での変化を捉えられないという問題がありました。一方、近年、太陽光誘起クロロフィル蛍光(Solar Induced chlorophyll Fluorescence、以下「SIF」)という人工衛星によりリモートセンシングできる指標は、光合成の過程そのものと密接に関係した指標で短期的な光合成の応答も観測できるものとして注目されています。
「クロロフィル蛍光」自体は、光合成の過程でクロロフィルが光を吸収した時に発する微弱な光です。クロロフィルは青色と赤色の光を多く吸収しますが、クロロフィル蛍光は、吸収した光の波長に関係なく赤色と近赤外にピークを持つ光となります。クロロフィル蛍光は非常に微弱な光であるため、通常の条件では観測できませんでしたが、以前から植物生理学の研究では、実験室内等の特殊な条件下でクロロフィル蛍光を計測して光合成系の状態の観測研究に利用されてきました。しかし、近年、技術の進歩により波長分解能が高い高性能な分光放射計が登場したことで、太陽光の下で植物が発するクロロフィル蛍光、すなわちSIFを検知することができるようになりました。太陽光のスペクトル(分光計を通して得られる波長に対する光の強度分布を示したもの)には、フラウンホーファー線と呼ばれる暗線、つまり、太陽光からその波長の光だけを抜き出しても光がほとんどゼロとなる暗い波長が複数存在します。波長分解能の高い分光放射計は、フラウンホーファー線とクロロフィル蛍光が重なる波長を抜き出すことができるため、SIFを検出することができます。波長分解能の高い分光放射計によるSIF観測のアイデア自体は1970年代からあり、観測も試みられていましたが、近年まで大きな注目を集めるような成果はありませんでした。ところが2011年、人工衛星GOSAT(温室効果ガス観測技術衛星)のTANSO-FTSセンサーにより、宇宙から陸域の植生が発するSIFを観測できることが明らかになりました。GOSATは環境省、宇宙航空研究開発機構(JAXA)、国立環境研究所が共同で運用する衛星として、温室効果ガスのCO2とメタンの大気中の濃度を観測することを目的に2009年に打ち上げられました。TANSO-FTSセンサーは高波長分解能の高性能な分光放射計で、偶然にもフラウンホーファー線とクロロフィル蛍光と重なっている波長帯を観測しており、この観測データからSIFを検出することができたのです。GOSATによりSIF観測が可能であることが明らかになって以降、OCO-2やMetOp衛星シリーズのGOME-2センサー、Sentinel 5P衛星のTROPOMIセンサーなど、大気観測を目的として設計された他の衛星を使ったSIF観測が盛んに行われ、これらのSIFデータから陸上植生の光合成量や生態系のモニタリング研究が多数行われるようになりました。また、GOSATの後継機であるGOSAT-2においても、SIFは標準プロダクトのひとつとして公開されています。さらに、欧州宇宙機関(ESA)では、SIFの観測を主目的とした世界初となる衛星FLEXの打ち上げを2024年に計画するに至りました。
SIFから光合成量を推定する方法として、SIFと光合成量の経験的な関係を利用する研究例もありますが、近年ではSIFの決定メカニズムに着目し、それらの過程をモデルで再現することで、より高精度な光合成量推定を試みる研究が中心となっています。SIFは、光合成系の生理学的過程と、葉内から植物群落、大気中の光の伝わり(放射伝達)という物理学的過程の二つの過程で決定されます。SIFから光合成量を推定するモデルはこれら二つの過程を再現するモデルを組み合わせたものとなっています。また、SIFを決定する光合成過程および放射伝達過程のそれぞれについても、さらに深い知見を得るための研究がなされるようになりました。例えば、葉1枚のレベルでの、光合成の測定と分光特性測定を組み合わせた生理学的研究例も増えましたし、林床にササが生育するような典型的な日本の落葉広葉樹林で林床植生のSIFへの貢献が明らかにされるなど、近年、SIFに関連して興味深い研究が次々と行われています。
クロロフィル蛍光自体は古くから知られる現象でしたが、GOSATによるSIF観測の成功が契機となって、リモートセンシングや植物生理学、モデル、生態学など、SIFに関連した研究が大きく前進しつつあります。今後、これらの研究結果を取り入れることで、SIFによる高精度な植生CO2吸収量推定が行われ、気候変動対策に活用されることが期待されています。
執筆者プロフィール:
長年、植物の光合成を研究しており花には全く興味がなかったのですが、最近、胡蝶蘭を育てることにはまってしまい、花を楽しむのもいいなと思うようになりました。