シベリアでのタワーを使用したGHGモニタリング
特集 温室効果ガスを「見る」ための科学
【研究プログラムの紹介:「気候変動・大気質研究プログラム」から】
笹川 基樹
<ロシア連邦でのGHGモニタリング>
原稿執筆時(2022年10月)の難しい国際情勢の中、読者の中にはロシアと聞くだけで眉をひそめる方もおられるかもしれませんが、ここではシベリアつまりロシア連邦内で国立環境研究所が行なっているGHGモニタリングに関して紹介します。PJ1のタイトルになっている「地球規模における自然起源および人為起源GHG吸収・排出量の定量的評価」には、地球全域でのGHGモニタリングが必須になってきます。特にGHGの吸収や排出が大きいと予想される地域ではなおさらです。空気に国境はありませんので、東西方向には数週間で地球を1周します。それは例えば、北京で高濃度のPM2.5が観測された数日後に、北九州でも観測されたというニュースなどからも想像していただけるかと思います。主要なGHGである二酸化炭素(CO2)やメタン(CH4)などが発生してから、大気中の化学反応や吸収などで消えるまでの時間は、空気が広がる時間スケールよりずっと長いので、なおさら発生域ばかりに留まってはくれません。ところで現在、あらゆる分野でロシア連邦との交流を制限する動きがありますが、温暖化によって引き起こされる多くの問題が長期間にわたり全世界に及ぶことを考えると、ことGHGモニタリングに関しては、慎重にならなくてはいけません。なぜならロシア連邦には世界の森林面積の約20%を占める森林帯(タイガ)があり、その陸域生態系による呼吸・光合成によってCO2濃度は大きく変動します。温暖化による環境の変化で、この陸域生態系によるCO2吸収量が変化し、全世界のCO2濃度にも影響が出ると考えられます。また西シベリアには世界最大の湿地帯が広がり、そこからのCH4の放出量は自然からの起源としては世界最大と考えられています。シベリアからのCH4放出が全世界のメタン濃度に影響を与えるのです。このようなことから、ロシア連邦においてもGHGのモニタリングが大変重要になってくるのです。しかし30年以上前、世界のGHG観測網の中で、広大なシベリアでの観測は、空間的にも時間的にも限られたものしかありませんでした。厳しい自然環境やインフラの問題で観測自体が難しかったためです。また当時はソビエト連邦が崩壊した時期でもあり、ロシア連邦が独自にGHG観測を始める動きはありませんでした。そこで国立環境研究所は世界に先駆けて、1992年からシベリアでの航空機によるGHGの大気観測を、日露国際協力の一環として開始しました。その後2001年からはタワーを利用したGHGの連続観測も開始し、徐々に観測点を増やし、現在もGHGモニタリングを続けています。
<タワー観測ネットワーク>
最大9ヶ所まで展開した(2022/10現在6ヶ所)タワー観測ネットワークは、2010年にSasakawaらで発表した論文の中でJR-STATION (Japan-Russia Siberian Tall Tower Inland Observation Network)と名付けました(図1)。Observation station(観測所)からとった“station”に、日露を加えて略語としては日本で耳慣れた響きにしてみました。ただ実はネットワークという響きとはほど遠く、観測システムはインターネットに接続されていませんし、各観測サイト間で連動した動作をすることもありません。ここでの意味は観測“網”から来ており、ある程度の間隔で観測サイトを網のように配置することで、西シベリアでのGHGの濃度変動の時空間的な特徴を捉えるというイメージです。また上述したような地表(タイガや湿地)からのGHGの吸収・排出量をその網で捉えることも行います。この観測システムでは、大気中のCO2とCH4の濃度を連続測定していますので、このデータを元に、地表からの吸収・排出量を逆計算(観測されるGHG濃度は、元々大気に存在したGHGに排出源からのGHGが加わったり、吸収源により吸収された結果が見えています。そこで、観測されたGHG濃度から逆に排出源・吸収源の分布を定量的に推定する方法です。)により間接的に求めることができます。JR-STATIONのデータが公開されるまでは、逆計算により全世界の吸収・排出量を求めたときに、シベリア域は、ある意味他の地域のしわ寄せを受けた結果になっていました。以前はシベリア域に観測の網がほとんどなくスカスカだったため、この領域の本当の特徴を取り出すことが難しかったのです。しかしJR-STATIONという網で、より正しいと考えられる吸収・排出量が捉えられるようになってきました。例えば2013年に発表されたSaekiらによる論文では、シベリア域のタイガによるCO2の吸収量は、JR-STATIONのデータを使わないと、過剰に推定されていたことがわかりました。また2017年に発表されたThompsonらによる論文では、西シベリアの湿地帯からのCH4放出量が、以前に考えられていた値より大きいということもわかりました。影響の大きいシベリア域の吸収・放出量をより正確に求めることで、その他の地域の推定値もより確かなものになっていきます。
<もう一つのネットワーク>
2000年以降、シベリアを含む高緯度域では世界平均の2倍の速さで気温上昇が進んでいるため、シベリアでのGHGモニタリングの重要性はますます高くなっていますが、国立環境研究所によるモニタリングを除き、長期にわたる観測が継続されているものはありません。それはロシア連邦内での諸外国による観測には制限が多く、特に近年様々な規制が増えてきたことも原因です。たとえ観測はできても、そのデータをロシア国外に出すことが一苦労と聞きます。実はJR-STATIONは既に2014年のウクライナ紛争の煽りを受けて、南部のサイト(図1中SVV)が閉鎖に至ったこともあります。またこのコロナ禍で、日本からの物資の輸送をロシア側で拒否されるという状況が起きています。このようにロシア連邦には特殊な事情が多々あり、観測を行うこと自体がますます希少で貴重になっています。そのためJR-STATIONのデータは近年、逆計算によりGHGの吸収・排出量を推定する世界中の多くの研究者に使用されており、今後も本観測の継続を希求されています。残念ながら2022年のウクライナ情勢や、円安、インフレによって、このGHGモニタリングを維持する環境は非常に厳しくなっています。ただ一度やめてしまうと再開することは現状ほぼ不可能なので、本プロジェクトに関わる方は誰もが観測継続のために知恵を絞り、あらゆる手段を探っています。ロシア側でこのモニタリングに関係している研究者やオーガナイザーも惜しみない協力をして下さっています。これは30年以上にわたるモニタリングで国立環境研究所が強い信頼を得て、人と人のネットワークを築いてきたからと考えています。我々がこれまで作り上げてきたこの二つのネットワーク(写真1)を有効に活かして、今後もできる限りシベリア域のGHGモニタリングを継続し、国際的な貢献を続けていきたいです。
執筆者プロフィール:
ノーベル文学賞作家であるスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』を読むことがありました。ウクライナの今と重なり、心が痛みます。ウクライナ情勢が落ち着くことを祈るばかりです。