ユーザー別ナビ |
  • 一般の方
  • 研究関係者の方
  • 環境問題に関心のある方

九州大学理学部教授 小野 勇一

 生物学の急速な発達と分化が進み、分子の世界の解明と同時に地球規模の環境の生物学的側面の様々な法則性が追求されてきたことは周知の通りである。また、分子生物学の技術面での成果はバイオテクノロジーとして開花し、多くの「人工的」な生物を創り出したこともよく知られたことである。しかし、これらの人工的な生物が自然界に拡散したときに果して地球上の生物世界にどのような影響を与えるのかについては全くと言ってよいほど不明のままである。

 地球環境の生物的側面の研究は主にグローバルな面での生態系について行われており、このような「新しい」生物が自然に拡散した場合の影響評価、あるいはそれが有害である場合の対策については現在のところそれが果たして有力な研究方向であるかについては疑問がある。新しい種が既存の種群に侵入し、撹乱し、あるいは定着する過程はすぐれて群集生態学の課題である。群集は生態系生態学では往々にしてブラックボックスとして扱われている部分である。

 生物の群集は細胞や個体の様に具体的な視覚に訴える形態を持っていないので研究の対象にならないと極論する生物学者もいる。たしかに群集は本来が概念的なものであり、これを生物個体の様な一つの有機体として捉えようとするならばこの見方は正しい。しかし、細胞、個体、個体群という生物学の統合の一つのレベルとして群集を見るならば、群集もたしかに生物学の対象として捉えることができる。群集は種の集合体であるので、そこにはそれ以下のレベルでは考えることの出来ない集合体としての別な法則性が働いていると見ることが出来る。即ち、群集レベルでの種間の相互作用(より広くは相互関係)とその集積の状態が研究の具体的な目的である。

 群集生態学の研究の歴史は4つの大きな変化を経て現在に至ったと考えられる。即ち、(1)群集を構成する個体数と種類数の間に法則性を探った時代。この時代はいわば群集の形態学とも言えるもので、群集の境界や生活形類別に関する議論が賑やかに行われた。続いて(2)群集を生物生産の場として捉えた時代はハッチンソン( G.H.Hutchinson )、リンデマン( R.L.Lindeman )の思想を背景に、特に水域の群集について様々な測定が試みられた時代でもあった。(3)マッカーサー( R.H.MacArthur )のニッチ理論の展開は種の適応に関する進化的実証への新しい路を開くと共に、群集を種のニッチの集積として捉えると言う新たな視点を提供し、現代にも通じる新時代をもたらした。(4)最近は、更にそれからの展開として、共同、協力、競争などの様々な種間関係の集積として、ときには種間の共進化の帰結として、群集の構成原理を追求する研究が発展している。この方向は従来、往々にして、単純に種間競争のみを原理とした群集論と鋭く対立している。現代はこの対立ばかりでなく、生態系を構成する生物部分としてより構造的に精密化したモデルを導入した研究や食物連鎖のシステム論的視点からの研究など多様化している。

 この様な群集生態学の課題は人間環境問題とも決して無縁ではない。今から10年ほど前の環境アセスメント大流行の時代には生物指標として群集の多様度指数がそのものの検証を抜きにして多用(しばしば誤用)された。また、複雑な群集ほど安定であると言う「原理?」は多くの自然保護論の理論的背景とされた時代もあった。この安定性に関する議論は理論的にも実際的にも現在でもまだ多くの研究・議論が重ねられている問題であり、未解決と言ってよい大きな課題である。

 このような群集に関する課題を実際的に解決するためには野外実験を含めて自然群集を研究する以外に方法はない。もちろん、人工群集でも充分研究できるテーマもあるが、種間関係の自然的バックグランドである知識は自然群集を研究してはじめて与えられると言えよう。とは言ってもわが国には陸上について言えば、自然群集研究のための施設はお粗末としか言えないくらいに少ない。諸外国にはこのような施設は羨ましいほどに多い。たとえば、ロンドン郊外にワイダム(Wytham)に30ha余りの学術研究林がある。ここはエルトン(C.Elton)らが自然群集の研究の場として設立したものである。ここの動植物は全て種のレベルまで同定されており、群集生態学の研究上最大の課題であり、かつ手間の割に最も手間の割に最も実りの少ない同定作業が不要という好条件を備えている。このため、ここの研究地からは群集生態学のみならず広く個体群生態学的な研究成果も数多く生み出された。そして、その成果はナショナルトラストや多くの自然保護地の管理のための理論的背景を与えているのである。

 もう一つ例をあげよう。先日、私はニュージーランドの科学技術局生態部門のオロンゴロンゴ野外研究施設(Orongorongo Field Station)を訪問する機会を得た。この施設は1855年の大地震の際に出来た谷沿いの段丘に発達した南極ブナやラタやカマヒの林のなかにある。1958年にスプートニクの打ち上げを赴任する船上で聞いたと云うジョン・ギブ(J.Gibb)が建てた実験室である。彼はイギリスでラック(D.Lack)のもとで学び、恐らく野外研究の大切さをよく知っていたので、動植物の群集全体を大事にすることを先ず考えてこれを建てたに違いない。彼は群集研究の座右として「長い時間をかける研究(long term study)」をおいている。部長の職を引退後の今日でも殆ど毎日ウサギやトリの観察を通じて、それを自ら実践して示している。南極ブナをはじめ固有な種が多いこの場所もその様な視点で選んだものである。ここでもワイダムと同じ様に動植物は種のレベルまでリストアップされている。これまでに、土着のコウモリ、侵入動物のウサギ類、ポッサム、森林に適応したクマネズミの研究など、この地から多くの成果が産まれている。

 公害研の近郊にもいくつかの森が残存していると聞く、また、数年前に掘られた池も研究用に活用されているようである。公害のバックグランドの研究と言っても、最も基礎的な自然群集研究は研究所の急務とも言えよう。そして、それは数百haの規模の森林・草原・水域がセットで存在するような場所で研究されることが望ましい。野外研究のための組織と施設が一日も早く本格的に活動を始めることを切に希望する。

*生態的地位のこと。エルトンの定義では種の食物網での位置を表し、ハッチンソンの定義では、種の生活様式や生活要求を表すものとして、時間、空間、食物などの単位軸に占める範囲(基本的ニッチ)の集合体を示す。ここでは後者を意味する。

(おの ゆういち)