短寿命気候汚染物質: (Short-Lived Climate Pollutants: SLCPs)
●特集 大気汚染と気候変化● 【環境問題基礎知識】
永島 達也
1.気候を汚染する物質?
本稿の主題である「大気汚染物質」ならぬ「気候汚染物質」という言葉には、違和感を覚えるという方もいらっしゃるのではないかと思います。大気汚染物質=大気を汚染する物質、というアナロジーからすれば、気候汚染物質=気候を汚染する物質、と考えたくなりますが、そもそも気候を汚染するという概念は、少なくとも我が国においてはまだ一般的なものとは言えそうもありません。SLCPs削減のため、米国を中心として今年(2012年)の2月に発足した国際パートナーシップである、Climate and Clean Air Coalition(CCAC)の定義によれば、SLCPsとは大気中での化学的な寿命が数日から数十年程度と比較的短く、気候を温暖化する作用を持つ物質とされています。この定義に合致するものとしてCCACによる取り組みの対象とされている主要な物質は、メタンと対流圏のオゾン、および、化石燃料やバイオマスを燃焼させた際に発生する煤煙の主要成分である黒色炭素粒子(ブラックカーボン)の3物質ですが、これらは確かに大気を暖め、気候を温暖化する作用を持つと同時に、人間の健康や農業、生態系に悪い影響を持つ大気汚染物質でもあります。つまりこの定義からすれば、気候汚染物質という言葉は、気候を汚染する物質という意味ではなく、大気汚染物質の中でも気候を温暖化させる特性を強く備えたものに付けられた名称と言えます。
さて近年、SLCPsの削減を通した地球温暖化の緩和策に、大きな注目が集まっています。その背景には、SLCPsの削減策が将来の(特に今後数十年という近未来の)地球温暖化に及ぼす影響の理解が飛躍的に進み、国連環境計画(UNEP)や世界気象機関(WMO)などの国連機関によってSLCPsの削減策やその効果に関する統合的な評価報告書が作られるなど、関連する知見の集積・整理が進んでいることがあげられます。
2.SLCPsの削減による多面的な便益
二酸化炭素(CO2)などの化学的な寿命が長い温室効果気体の削減は、地球温暖化の緩和策として、今現在も、そしてこれからも長期に亘って継続して行く必要があります。しかしながら、今後数十年という近未来における地球温暖化を効果的に抑止し、産業革命以前に比べた気温の上昇幅を、変化のリスクが小さいと予想される2℃以内に抑えるためには、こうした対策だけでは不十分であり、CO2の削減に“加えて”SLCPsの削減も行う事が有効であると、ここ最近の研究(本号の「重点研究プログラムの紹介」で解説したShindellらの研究など)で分かってきました。更に、近未来における温暖化を抑止することは、既に顕在化している地球温暖化の影響を最小に留め、その変化に適応したり、より進んだ緩和策や技術を開発したりするための時間を稼ぐという点でもとても重要です。加えて、大気汚染物質であるSLCPsの削減は、健康被害の軽減や農作物の収穫量改善などにつながり、これらに気候変化の抑止も含めた多面的な便益を生み出します。
2011年に発表されたUNEPとWMOの報告書では、SLCPsの削減によるそうした多面的な便益が、数値モデルを用いて定量的に検討されています(図1)。この図は化石燃料採掘時のメタン回収強化などのメタン排出抑制策を行った場合と、それに加えて、途上国における調理用ガスストーブの利用促進などのブラックカーボン排出抑制策を行った場合の全球気温(2050年)、早期死亡者数(2030年以降)、穀物収穫量(同)を、何も対策を行わなかった場合と比較して示したものです。メタンとブラックカーボンの排出抑制策を両方とも講じた場合、2050年における全球気温の上昇量は約0.5℃(0.2-0.7℃)も抑えられ、これに加えて、主としてブラックカーボンの減少によって、心臓病や肺がんによる早期死亡者(平均寿命より早く死亡する人)の数が約240万人(70-460万人)減少し、穀物収穫量の損失が約5200万トン(3000-14000万トン)減少すると評価されています。
3.SLCPs対策を進めるために
SLCPsという概念は、その誕生からまだ日が浅くまだまだ確固たるものではないと言えます。例えば、本稿でSLCPsとして取り上げた対流圏オゾンは、メタンを含む炭化水素化合物などの前駆物質から大気中で生成される二次汚染物質ですが、これを削減しようとした場合、図1にあるようなメタンの排出抑制策のみでは、東アジアのような非メタン炭化水素によるオゾン生成が活発な領域では思うような便益が得られないかもしれません。このような領域ではSLCPsにそうした物質も含めるなどの修正が必要になってくると思われます。
多面的な便益を持つSLCPsによる地球温暖化緩和策は、気候変動枠組条約に基づく二酸化炭素(CO2)の削減が、世界各国の利害対立からなかなか進まない状況下にあって、とても魅力的なオプションであることは間違いありません。ただし、個々のプロセスの科学的な理解度は、現時点で決して高いわけではなく、便益の評価に用いる数値モデルの違いによる結果のばらつきは、図1に示されているようにまだまだ非常に大きいものです。SLCPsによる地球温暖化の緩和策を大きな流れとしてゆくには、今後もプロセスの理解を深めながらモデルの改良を進め、得られる便益の評価をよりよいものにしていく必要があるでしょう。
執筆者プロフィール:
2年前にもこのコーナーに原稿を書かせていただきました。今回、2年前には聞いたことも無かった用語の解説を書くことになり、世の流れの速さを改めて感じています。つい最近、年齢の二桁目の数字が増えまして、体力の衰えを多少は感じつつも、こうした研究の本質を見失わず、世の流れに惑わされないようにしたいと思っています。