人工衛星データを用いた極成層圏雲の解析
シリーズ重点特別研究プロジェクト:「成層圏オゾン層変動のモニタリングと機構解析」から
齋藤 尚子
両半球の高緯度域では,冬になって気温が下がると,しばしば非常に色彩に富んだ美しい雲(23巻1号P.12 写真参照)が形成され,スカンジナビア半島北部などでは100年以上も前から目視観測されています。その鮮やかな色彩から真珠母雲と呼ばれるこの雲は,1970年代後半にアメリカの人工衛星NIMBUS 7に搭載されたSAM IIというセンサーが高緯度域を集中的に観測し始めたことによって,初めて両極域の広い範囲で発生するものであるということが明らかになり,極成層圏雲(Polar Stratospheric Clouds; PSCs)と名付けられました。しかし,PSCはその美しい外観とは裏腹に,オゾン破壊に対して不活性な塩素を,その粒子表面上で活性化させる不均一反応(気体と液体,気体と固体など,2つ以上の異なる相が関連する反応)を引き起こしたり,自らの重力落下により成層圏大気中から窒素酸化物を不可逆的に除去して(脱窒という)活性塩素の不活性化を阻害したりするなど,極域のオゾン層破壊を促進させる物質であるということがわかっています。
PSCと極渦(渦状に極域成層圏を取り巻いているジェット気流の一種)の存在によって,極域では大規模なオゾン層破壊が進行し,南半球の春季(9~11月)には極域の成層圏オゾン量が極端に少なくなる,いわゆる「オゾンホール」という現象が起こります。北極域においても,1990年代から春季のオゾン全量が急速に低下する年が見られるようになり,特に1997年,2000年には過去に例のない規模のオゾン層破壊が起こりました。日本の地球観測プラットフォーム技術衛星ADEOSに搭載された改良型大気周縁赤外分光計ILASは,1997年の北半球の高緯度域(北緯57~73度)で,オゾンをはじめ,エアロゾルや水,長寿命化学種であるメタンなど,成層圏大気化学に関わる物質を精度よく観測しました。ここで,長寿命化学種とは,大気中ではあまり化学反応をしない分子のことであり,メタンなどは「トレーサー」として用いることで大気中の物質循環の解明に役立ちます(詳細は今号11頁からの記事参照)。ここでは,ILASで得られたデータを用いて,1997年の北極域のPSC発生状況とその組成を調査した研究について紹介します。
ILASでは,成層圏エアロゾルの消散係数という量を測定しています。消散係数というのは,光が大気中のエアロゾル(または大気分子)によって吸収・散乱されて減衰する割合のことで,消散係数が大きいということは大気中のエアロゾルが多いということを意味しています。ILASのエアロゾル消散係数データを用いてPSCが発生していたかどうかを調べるためには,まずPSCが発生していない通常時の極域の成層圏エアロゾル(以下,バックグラウンドエアロゾルと呼ぶ)の量がどの程度であるかを知る必要があります。PSCは気温196K以下といった低温時に形成される雲(PSCの形成温度はその場の気圧,水分量などによって若干変化する)であることから, PSCが発生していないと考えられる高温の領域(ここでは気温が200K以上の領域)のILASのエアロゾル消散係数データの平均値と標準偏差を計算し,平均値をバックグラウンドエアロゾル量と定義しました。PSCはバックグラウンドエアロゾルに比べて光学的に厚い雲であるため,高度ごとに算出したバックグラウンドエアロゾル量とその標準偏差を指標にして,ILASのすべてのエアロゾル消散係数データを分類し,バックグラウンドエアロゾルに比べて消散係数の値が極端に大きいものをPSCと判定しました。このようにして高度ごとにPSCの判定を行った結果を図1に示しています。ILASデータの消散係数の大小のみを基準に判定されたPSCの観測場所と196K以下の低温領域が非常によい一致を示しています。PSCは,1月と2月前半は,グリニッジ子午線を中心とした領域で観測されていますが,2月後半から3月にかけては,その発生・観測領域が低温領域の移動に連動して東側に遷移していることがわかります。
PSCがいつどこで発生していたかを明らかにすると同時に,そのPSCの構成成分を明らかにすることも,オゾン層破壊メカニズムを解明する上では重要なことです。PSCは,その形成過程や形成時の温度によって様々な相や組成をしており,固体粒子として存在しているものも液滴粒子として存在しているものもあります。上述のとおり,オゾン層破壊過程において粒子の表面上で起こる不均一反応と粒子の重力落下による脱窒は重要な役割を果たしますが,固体粒子と液滴粒子とではそれぞれ不均一反応の反応速度定数が異なり,脱窒は液滴粒子よりも大きな粒子に成長できる固体粒子のみが引き起こします。このように,PSCの組成によってオゾン層破壊への寄与が異なるため,極域のオゾン層破壊メカニズムの定量的な解釈には,観測されたPSCの組成情報が必要となるのです。液滴PSCの成分は水と硝酸と硫酸で構成される3成分系粒子(supercooled ternary solution; STS),固体PSCの成分は氷雲もしくは硝酸の水和物です。PSCを構成する硝酸水和物の候補として,硝酸二水和物(Nitric Acid Dihydrate),硝酸三水和物(Nitric Acid Trihydrate; NAT),硝酸五水和物(Nitric Acid Pentahydrate)などが挙げられていますが,通常は成層圏で最も安定な硝酸水和物であるNATとして存在しているものと考えられています。ILASはエアロゾル消散係数だけでなく,PSCを構成する水や硝酸も同時に測定していますので,エアロゾル消散係数,水,硝酸のデータを組み合わせて解析することで,観測されたPSCの組成を推定することが可能となります。本研究では,熱力学平衡を仮定してSTS,NAT,NADの粒子体積(消散係数に変換可能)およびそれぞれの粒子が存在するときの大気中の硝酸量などを算出するモデルを用いて,ILASのPSC観測地点におけるそれぞれの組成のPSCの理論消散係数と理論硝酸量を計算しました。それらの理論値とILASのエアロゾル消散係数,硝酸データとを比較し,最もILASデータに近い理論値を与えるPSCの組成を観測されたPSCの組成とみなしました。この手法によるPSC組成の推定結果を図2に示しています。図2から,1,2月にはSTS(赤丸)が多く発生・観測されていたこと,3月に東経90度付近で観測されたPSCはNATやNADなどの固体粒子であったことがわかります。
本プロジェクトでは,現在,ILASの後継機であるILAS-IIのデータの品質,精度を検証し,それを用いてオゾン層破壊メカニズムについて解析しています。ILAS-IIが観測を行った2003年は,南極のオゾンホールの面積が過去2番目,オゾン破壊量が過去最大を記録しました。ILAS-IIは2003年の南極域のオゾン層破壊過程を最初から最後まで連続的に観測することに成功し,オゾンやPSCなど貴重なデータを提供しています。本研究では,ILAS-IIの南半球のデータについても,ILASデータの解析時と同様の手法を適用して,2003年の南極域のPSC発生状況を調べています。南半球では極渦が安定して形成されている期間(7~9月)には極渦内が非常に低温になり,気温が200K以上の領域でエアロゾル消散係数データを取得することができないため,バックグラウンドエアロゾル量を推定することが困難となります。そこで,前後の期間(5,6月および10月)のデータからこの期間のバックグラウンドエアロゾル量を推定し,その値をもとにPSCの判定を行いました(図3)。まだ初期的な解析結果ではありますが,7月後半からILAS-IIによるPSCの観測確率が8割を超え,9月にはすべての観測データがPSCを含んでいたということがわかりました。現在,我々はこの高頻度に観測されたPSCとオゾン層破壊との因果関係を詳細に調査しています。
執筆者プロフィール:
つくばに移り住んでから自動車の免許を取得したおかげで,2年間快適なつくばライフを送ることができたが,快適すぎてすっかり運動不足になってしまった。この春から何かスポーツを始めようと固く心に誓っている。
目次
- 危険な気候変動を回避できるか?巻頭言
- 温暖化対策税をめぐる議論−試算結果への批判に答えるシリーズ重点特別研究プロジェクト:「地球温暖化の影響評価と対策効果」から
- ダイオキシンによる生体影響−個体レベルから分子レベルまで−研究ノート
- トレーサーで見る中層大気中の物質輸送環境問題基礎知識
- 「第20回全国環境研究所交流シンポジウム」−生物指標・モニタリング−生物を用いて環境を測る−
- 「第24回地方環境研究所と国立環境研究所との協力に関する検討会」報告
- 「国際ナノテクノロジー総合展・技術会議(nano tech 2005)」出展報告
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独立行政法人国立環境研究所公開シンポジウム2005
『地球とくらしの環境学─あなたが知りたいこと,私たちがお伝えしたいこと─ 』 - 国立環境研究所「夏の大公開」の開催について
- 新刊紹介
- 表彰・人事異動
- 編集後記
- 国立環境研究所ニュース24巻1号