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環境と脳の相互作用

巻頭言

監事 小泉 英明

 広い意味での「環境」は,「自然」(nature)と「人工物」(human artifact)の二つの範疇から構成されている。海・山・野生の動植物などの本来の「自然」と,人間が何らかの形で手を加えた(あるいは手が加わってしまった)「人工物」という二種類である。この「環境」を構成する「人工物」の占める割合が大きくなってきて,自然界や人間の生存自体に影響を与えているのが環境問題であろう。地球生命史での最大の環境変化は,初期に生物が発生させた大量の酸素である。原始大気は二酸化炭素が主成分であったが,人間は今,再び大気中の二酸化炭素を増やしつつあり,地球温暖化を憂いている。前者には光合成する藻類を創った「遺伝子」の進化が,後者には遺伝子のみならず「神経系」の進化がもたらした人間の「知性」が,その現象の深層に位置している。

 全ての「人工物」は,多かれ少なかれ人間の「脳」の活動の結果として造られる。言い換えれば,「人工物」とは「脳の投射」(projection)でもある。例えば,都市に住む人々は多くの「人工物」に囲まれて生活している。道路は整然と区画に沿って走り,表面は舗装されている。樹木は道路に沿って植えられている。もし枯れることがあれば遅かれ早かれ新しい樹木が運ばれて補修される。このような都市においては,ほとんど全てが人間の「脳」によってデザインされている。そして,都市をデザインした「脳」自体もその環境の中に住む。

 一方,「脳」が「環境」を造るのとは逆に,「環境」もまた「脳」を造る。脳は中心部から表層にむけて層状に進化してきたためにいくつかの脳の複合体でもある。人間の脳幹はほぼ爬虫類の脳であり,呼吸や循環など生命維持を司る。その周りに本能・情動の座である古い皮質(大脳辺縁系)が発達した。さらに表層には新しい皮質が進化したが,この大脳新皮質はよりよく環境に適応するための脳である。視聴覚など環境の検出を行うとともに,判断・推測などの高次機能を司る。一般に,左脳は言語的であり右脳は非言語的である。言い換えれば,左脳は理性の座であり,右脳は感性の座でもある。

 さらに肝心なのは,乳幼児期に顕著に見られるように,遺伝子の情報によって大雑把に作られた無数の神経接続は,環境からの刺激を受けたものだけが生存する。個体の中で,環境適応のための神経淘汰が行われるのである。その例として,神経生理学の分野でよく知られている子猫の実験がある。幼い猫を縦縞だけの環境下で育てると,一生,横縞を見ることができなくなってしまう。幼いある時期に,横線を見て生じる脳への入力信号が全くないと,横線に感受性のある大脳皮質視覚野の微小神経単位(モザイク状の方位感受性コラム)が形成されないためである。人間の場合でも,乳幼児期に眼帯で片目を塞ぐと一生弱視になることが追跡研究によって確認された。遮蔽された目の方の微小神経単位(モザイク状の眼球優位性コラム)が正常に形成されないためである。

 このように「環境」は実際に「脳」の神経回路や機能の一部を造り込む。この事実は,特殊な環境は特殊な脳を造る可能性があることを示唆している。例えば,上記の縦線のみの環境は,自然界では存在しない。自然な環境では一般に縦線成分と横線成分はほぼ等しく存在する。横線成分の欠落は自然な環境に起こり得ない。しかし,人工的な環境では多くの自然界に存在する構成成分が欠落する。例えば,高層ビル街では,縦横の直交した直線が支配的であり,斜めの線や曲線は少ない。縦縞の環境に育った子猫に類似した現象が,我々の感情や精神活動といった高次脳機能についても起こり得る可能性がないとは言えない。「環境と脳の相互作用」は,脳科学と環境科学の双方にとって,これからの大切な研究課題であろう。

 日周リズムは遺伝子で決定されるが,睡眠などの生活リズムは乳幼児期にその基盤が環境から獲得され,それらに臨界期が存在することも分かってきた。愛着(attachment)の発達もまた然りである。さらに最近の分子生物学は,遺伝子の発現調整が重要であることを見いだしつつあり,遺伝子の発現が環境要因に左右されるケースも見つかってきた。一方で,子どもたちが,各種のメディアに接している時間は,学校教育の授業時間を凌ぎつつある。情報化・個人化・効率化といった現代の大きな環境変化の中で,私たち,特に未来を担う子どもたちの脳の変容を実証的にアセスメントすることは焦眉の急となってきた。

 (こいずみ ひであき)

執筆者プロフィール:

1971年東大教養学部基礎科学科卒業・同年日立製作所入社・1976年博士論文を提出し東大理学博士。基礎研究所所長・技師長をへて現在役員待遇フェロー。科学技術振興機構領域統括・東大先端科学技術研究センター客員教授・本年4月から日本分析化学会会長。