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低濃度有害化学物質の刺激作用

研究ノート

藤巻 秀和

はじめに

 我々を取り巻く環境中には数多くの化学物質が氾濫している。当然,その中には人や動物への有害性が報告されている化学物質も含まれている。一方,生物由来の花粉,ダニ,カビなどのアレルギー反応を引き起こす物質(アレルゲン)や細菌,ウイルスなどの微生物にもわれわれは頻繁に曝されており,生体内で抗原(異物)として認識されている。自然界のいずれの動物においても化学物質や抗原を有害と認識すればそれを避けようと行動する。有害との認識ができて,「記憶」していればであるが。それでは,有害な化学物質については曝露量さえ気をつけていればそれでよいのであろうか。

アレルゲンの認識と記憶

 生物体内に入る化学的,生物学的因子の量が多ければ,それを認識して記憶に留めておくメカニズムは鋭敏である必要はない。しかしながら,それらの侵入量が微量になればなるほどこの認識し,記憶しておくメカニズムに鋭敏さが必要になる。生物学的因子の場合を考えてみよう。マウスに0.25μgのアレルゲンを投与することでアレルギーの反応に増強がみられる。我々の意識の中で大病を患い医者にかかった場合は別にして,日常いろいろな細菌に感染したという記憶は意識にはのぼらないが,生体内ではマクロファージのような貪食細胞やリンパ球のような有益な情報伝達分子や抗体を産生する細胞により感染情報は蓄積される。したがって,再度同じ細菌,たとえば細菌Aに感染するとその細菌Aを認識する免疫系の記憶細胞が活発に増殖して抗体等で攻撃し排除する。このように生物学的因子の場合には,たとえ微量でも生死にかかわることゆえ鋭敏な認識,記憶メカニズムを備えた免疫系が活躍している。血清中の抗原に特異的な抗体価を測定することや種々のアレルゲンに対する皮膚での反応を測定することは,まさにこれまでに曝された抗原の記憶リストを明らかにすることである。有害化学物質に対する免疫系の認識,記憶メカニズムについてはあまりはっきりしていない。しかしながら,ニッケルやクロムなどの金属によって誘発されるアレルギー性接触皮膚炎にみられるように免疫記憶が形成されていると思われる炎症がある。すべての化学物質にあてはまるかどうか定かでないが,いずれにしても,免疫系での記憶は,異物の侵入に対する防御,及び排除のためにあると考えられる。

脳での化学物質に対する認識と記憶

 脳神経系における化学物質と抗原の認識,記憶はどのようになっているのであろうか。アレルゲンなどの生物由来因子の記憶は,アレルギーとしての花粉症や喘息などの症状が現れることにより,その状況が脳に認識され記憶としては残るが,アレルゲンの記憶は免疫記憶としてのみ蓄積されていると考えられている。

 鼻部に刺激性のある有害化学物質は匂いとして嗅細胞の受容体で認識され,その臭い情報は嗅覚から大脳辺縁系の扁桃体(扁桃核)をとおって大脳皮質の嗅覚野へと行き記憶される(図1)。脳の構造と機能については,詳しくは「環境問題基礎知識」を参照してください。匂いとしての通常の経路による情報の記憶と,有害化学物質の影響としての認識と記憶の違いについては全く不明である。吸入された化学物質は,鼻から気道,肺の深部に影響を与え炎症を引き起こすが,このことにより,生体内の免疫系が活性化され,間接的に脳神経に影響する経路が考えられる。また,化学物質曝露による別の影響経路として皮膚表面の感覚神経を刺激することにより神経終末より分泌される神経伝達物質の動態が変化し,その結果として中枢神経系が過敏に反応することも考えられる。脳における化学物質の認識と記憶に関するメカニズムも鋭敏に反応すると考えられる。中でも大脳辺縁系にある海馬という領域は記憶の形成に重要な役割を果たしていることが明らかとなっている。海馬における記憶の形成には,シナプスにおける可塑性,つまり神経細胞間の接続部分での情報伝達の効率が長期にわたって増大することがかかわると報告されている。

図1.大脳辺縁系の場所(緑線の内側部分)

低濃度有害化学物質の刺激作用

 最近,室内での化学物質曝露により体調の不調を訴える人が増えつつある。その中には,学習・記憶力の低下や集中力の低下など海馬への影響が関与していると考えられる症状もいくつか含まれている。化学物質が真にその原因となっているのか,室内のダニ・カビなどに見られるような生物要因が原因なのか,はたまた精神的ストレスが原因なのか特定できないのが現状である。化学物質の生体影響を考えるときに,これまではいくつかの毒性指標について急性の高濃度曝露と,可能な場合には慢性の低濃度曝露を行い閾値の試算をして安全量を算定してきた。ところが,より低濃度での化学物質がしばしば引き起こす刺激作用はその評価には使用されなかった。これまでの免疫系の細胞を用いた我々の研究で,塩化カドミウムにより抗体を産生する細胞数が増加すること(図2)や抗原の刺激を受けた肥満細胞からのヒスタミン遊離がホルムアルデヒドにより増加すること(図3)がそれぞれの低濃度域で認められている。したがって,より低濃度域での化学物質による刺激効果が脳神経においても認識と記憶の形成に影響し,過敏に反応している可能性が考えられる。最近開始した研究の展開

図2.塩化カドミウムによる抗体産生細胞数の変動
図3.ホルムアルデビドによる抗原刺激した肥満細胞からのヒスタミン遊離の増加

 人が匂いの感じられない低い濃度で化学物質に曝露されたときに,嗅覚は影響を受けているのだろうか。そのときの化学物質の情報は脳の中でどのように認識され,記憶として残されているのであろうか。いずれにしても,比較的環境濃度に近いところでの化学物質の曝露により刺激作用として脳神経系,免疫系での過敏な反応が見られるのか否かほとんど明らかになっていない。これらの未解明な問題に取り組む研究が始まっている。

 我々のこれまでの研究では,低濃度のホルムアルデヒドに3ヵ月間曝露されたマウスの脳では,抗原がそのときに体内に入って感作を受けていないと神経成長因子に変動はみられなかったが,抗原が侵入して免疫系を活性化したマウスの脳では神経成長因子の産生量に異常な増強がみられることを観察した。また,海馬を破壊したマウスと正常なマウスとでNO2曝露して免疫系の指標について調べた研究では,免疫細胞が分泌するサイトカインと呼ばれる活性化因子の産生において海馬破壊によりいっそうその影響を大きくさせる結果が得られている。これらの研究から,神経系と免疫系との相互作用による影響の出現が明らかとなってきたが,そのメカニズムは不明である。最近,免疫系と神経系との類似点が数多く明らかにされつつある。脳のグリア細胞は種々のサイトカインを分泌すること,また逆に,免疫系のリンパ球にアセチルコリンやドーパミンなどの神経伝達物質に対する受容体が存在すること,脳の記憶遺伝子の産物であるある種の蛋白リン酸化酵素がリンパ球の分化に関連した働きを有することなどである。これらのことから,神経系と免疫系とは互いに密接に情報交換を行い,生体内の恒常性維持に働いていると考えられている。低濃度の化学物質曝露に対する認識と記憶メカニズムの解明のための研究は,化学物質のリスク評価という観点からも大いに貢献ができると考えている。

 あとがき 先日,ある新聞に「聞こえない音が脳を刺激」という記事があり,我々の可聴領域(約20ヘルツから2万ヘルツ)を越える音を聞くと脳幹を刺激して心地よさをもたらしてくれるということであった。嗅覚を刺激する匂いとしての化学物質に置き換えてみると,匂わない匂い,つまり匂いとして人に感じられない匂いが脳を刺激してなんらかの反応をもたらすことがあるのかもしれない。人は匂い感度に関しては比較的鈍感で1マイクロモルの濃度の匂い物質が必要との報告もみられているが。

 (ふじまき ひでかず, 環境健康研究領域生体防御研究室長)

執筆者プロフィール

 五感のおとろえを補うために,平野啓一郎の眼を見張らせる日本語の高度な表現力と,川畠成道の脳幹を洗浄してくれるようなバイオリンの音色で視覚と聴覚を介した感性回復を試みているこの頃の休日の過ごし方である。