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化学輸送モデルとILASデータによる極渦崩壊後の成層圏大気の混合の研究

シリーズ重点特別研究プロジェクト:「成層圏オゾン層変動のモニタリングと機構解明」から

秋吉 英治

 近年のオゾンホールに見られるように,南極や北極の成層圏では,冬の間に形成される極渦(きょくうず)と呼ばれる他から孤立した空気塊の中で,浮遊粒子表面で起きる特殊な化学反応が進んで,春になって日射量が増加するとともに急速にオゾン破壊が起こるようになります。このオゾン破壊による顕著なオゾン減少は,極渦が歪みついには壊れてしまうまで続きます。極渦が壊れるとき,オゾン濃度の低い極渦の中の空気は,極渦の外のオゾン濃度の高い空気と混合して,中緯度のオゾン濃度にも影響を及ぼします。このような極渦が壊れるときの,あるいは壊れた後の極渦起源の空気塊の混合過程を調べることは,中緯度のオゾン変動を理解する上で重要です。例えば,最近札幌など日本の北部で春季のオゾン減少トレンドが観測されていますが,その原因は,北極でオゾン破壊が進み,極渦が歪んだり崩壊したりしたときに,北極のオゾンの少ない空気塊が日本までやってきたためだと考えられています。そこでこの混合過程を理解するために,この時期のN2O(亜酸化窒素)の分布を調べてみました。というのも,下部成層圏においてはN2Oの光化学寿命が非常に長いので(数年から数百年),極渦崩壊後の空気の混合といったような1年以内に起こるような現象に関しては,N2Oはほとんど化学反応を起こさないトレーサーとして扱えます。そこで,極渦内に特有なN2Oの低い濃度値を示す空気塊を追っていけば,極渦崩壊後の空気の混合の様子がよくわかるのです。図に,北極を中心とした下部成層圏(高度約22~24km)における1997年5月1日(左),13日(中),22日(右)のN2Oの体積混合比の分布を示します。この分布は,国立環境研究所のオゾン層モデリング研究チームで開発を行った化学輸送モデルによって計算されたものです。この化学輸送モデルは,東京大学気候システム研究センターと国立環境研究所で共同開発を行った大気大循環モデルに,国立環境研究所で開発した大気微量成分の濃度計算モジュールを結合し,さらに気温と風速のデータをこのモデルに入力して同化させ,日々の大気微量成分の濃度分布を計算できるようにしたものです。左図はこの年の北極渦崩壊直前のN2Oの分布を表し,真ん中の図は北極渦崩壊直後の分布を表しています。図中に示された赤い丸い点は,環境庁(当時)で開発されたILAS(改良型地球周縁赤外分光計,Improved Limb Atmospheric Spectrometer)の観測点を表していて,このような地点でILASによって観測されたN2Oの濃度値と,この化学輸送モデルで計算されたN2Oの値およびその変動は,非常によい一致を示すことが確認されました。また,左図の青い色で示された部分はN2O濃度が低いことを示していて,この部分は北極渦の内側に対応しています。緑色や黄色,赤色の部分が北極渦の外側に対応します。なぜ,極渦の内外でこのようなN2Oの濃度コントラストが形成されるのかについてですが,N2Oは,生物活動により地表から下層大気中に放出され,上部対流圏・下部成層圏からその上の上・中部成層圏にかけて急速に濃度が減少していくような鉛直分布をしています。これは,成層圏の上の方では紫外線が急に強くなってN2Oの光解離が促進されたり,また,そこで高濃度の励起状態の酸素原子と反応したりして,濃度が低くなるためです。一方,対流圏から下部成層圏までの高度範囲では,このようなN2Oに関する光化学反応は非常に遅く,その光化学的な寿命は数年から数百年と言われています。極渦の内側ではその外側よりも下降流が強いので,濃度の低いN2Oをもった空気が下部成層圏まで降りてきます。従って,同じ高度においては,極渦の内部では外側に比べてN2O濃度が相対的に低くなるのです。

図.化学輸送モデルで計算された北半球下部成層圏のN2Oの体積混合比(ppbv)の分布
図.化学輸送モデルで計算された北半球下部成層圏のN2Oの体積混合比(ppbv)の分布
 青い色は低濃度,赤い色は高濃度を表す。上が0oE,左が90oEの正射図法で表されている。赤い丸い点は,ILASの観測点を表す。

 さて,この年の北極渦が壊れるときには,極渦は長く引き延ばされ,いくつかの部分に分割されました。真ん中の図では,極渦の空気が引き延ばされていくつかの部分に分割されかけていることがわかります。極渦空気塊は,図の左のユーラシア大陸から大西洋を渡って図の右の北米大陸上空まで長く続いています。この時日本上空にもこの低濃度N2O空気塊がやって来ています(図の左下の青い部分)。さらにしばらく経つと(右図),この引き延ばされ分割された極渦気塊のうち,濃い青で示されている比較的N2O濃度の低い,サイズの大きい2つの空気塊が生き残り,この後約2ヵ月半の間,徐々に周りの空気との濃度差を弱めながらも,周りの空気に比べて低い濃度を保ちながら,北極の周りを時計回りに約1ヵ月の周期でゆっくりと移動していく様子が確認されました。しかも幸運なことに,5月22日に図の右(北米大陸上空)にあった空気塊は,その後ほぼILASの観測が行われた緯度円に沿って西へ西へと移動していきました。つまり,この空気塊が通過した地点でN2O濃度の観測を行うと,その間通常に比べて異常に低い濃度を観測することになります。極渦崩壊後数ヵ月経っても,中緯度でN2Oの異常に低い濃度が観測されたという事例は以前にも数例報告されていて,それは,極渦崩壊後の極渦内外の空気の混合が直ちに完了せずに,もともと極渦内にあった空気の欠片がそのまま夏の成層圏大気の中に“凍結”されていつまでも残っているからだという仮説がたてられるにいたりました。この仮説はその後3次元モデルによる数値実験によりひとまず確認されましたが,今回のように,衛星による観測事実をもとに化学輸送モデルで実証した例はほとんどありませんでした。さらに,極渦起源の,N2O濃度の低い空気塊は,極渦崩壊後は時間と共に徐々に周りのN2O濃度の高い空気塊と混合していくのではなく,ある期間はほとんどその低い濃度を一定に保っていますが,この空気塊が大気の流れによって著しく変形を受けたときに急速に混合が行われるということもわかりました。図では,N2Oの水平分布のみしか示していませんが,鉛直方向には,この低いN2O濃度の空気塊は,極渦崩壊直後は,円柱のように立ったような構造をしています。急速に混合が行われるときは,水平風速の上下間の差によってこの円柱状の空気塊が横に傾き,ついには,真ん中あたりで引きちぎられてしまいます。このとき水平方向のみならず,鉛直方向にも盛んに混合が行われて,周りの空気のN2O濃度との差が一気に縮まることも,化学輸送モデル計算とILASによる観測から確認できました。

 N2Oと同様にトレーサー的に振る舞う保存量として,渦位(Potential Vorticity)という気温と風速から計算できる力学量がありますが,こちらの方は,極渦崩壊後2~3週間で極渦内外の値のコントラストが薄れてしまい,区別がつきにくくなるということも確認しました。従ってN2Oは,下部成層圏では極渦内空気の優れたトレーサーであると言うことができます。

 以上のような成層圏大気の物質輸送に関する知見は,限られた緯度帯しか観測できないが高頻度で微量成分の濃度を観測することのできるILASによるデータと,微量成分の濃度を3次元的にグローバルに計算することのできる化学輸送モデルとを組み合わせて初めて明らかにできることです。両者を併用することによって,微量成分の濃度変動のみならず,その濃度変動を引き起こすもととなる微量成分の空間分布の全体像や空間分布の時間的な移動の様子がはっきりします。さらに,この極渦起源の低濃度N2O空気塊の空間スケールとその寿命から夏の下部成層圏における渦拡散係数(大気の乱れにより物質が拡がっていく程度を示す値)も見積もることができました。今後は,プロジェクトのメインテーマであるオゾンに関する変動を調べていきたいと思っています。

 (あきよし ひではる,成層圏オゾン層変動研究プロジェクト)

執筆者プロフィール

 福岡県出身。最近創刊された「鉄道の旅」を毎週買っては眺めている。ゆったりとした時間の中で,列車の心地よい響きとともに素朴で美しい風景を満喫している自分を想像しながら。子供の頃よく見た,長い石炭貨車を引いた蒸気機関車の勇姿と汽笛が忘れられない。