新任にあたって
論評
森田 昌敏
急速な変化が科学と技術の世界でおきている。牛馬を利用した陸上輸送が蒸気機関車にかわり,電気機関車,自動車,新幹線,リニアモーターカーと僅か100年の間に変化し,しかもその変化のスピードは加速している。ケミカルアブストラクトに収録された化合物の種類数は1984年の700万種強から1989年3月の940万種へとわずか5年余りの間に30%以上の増加をみるという爆発的な勢いで増加している。新化合物の発明発見がつづいており,来年の今頃は1000万種に到達しているであろう。
計測技術の進歩も同様である。かつて重金属の痕跡分析と言えば比色分析が主流であった。東京都新宿区牛込柳町における自動車からの鉛汚染問題において,血中鉛の分析のために原子吸光法が登場した。約20年前のことである。今から考えると当時の装置はかなり原始的な原子吸光光度計であり,その後,正確な値を求めて装置と操作法の改良が加えられた。鉛の検出下限は,比色法やフレーム原子吸光法の0.1ppmの時代から,炭素炉原子吸光法の1ppb,そして最近のICP質量分析法の0.01ppbへと,わずか20年の間に1万倍の向上がみられている。このような計測技術の進歩は他の研究領域に大きな影響を与え“Analytical Chemistry War”と呼ばれる現象を発生させている。これは,より高価でより高感度な分析技術を持つグループが研究競争で勝利を得るということ,そしてそのためにより高性能の分析装置の開発競争がくりひろげられていることを表している。新しい発見にとって,新しい検出手段がしばしば決定的に重要である。
物理量(長さ,重さ,時間,温度等)は,比較的高い精度でその測定値を求めることは(例えば±1%誤差)容易である。一方公害の主流を占める汚染物質の量を±1%の精度で求めることは非常に難しいし,しばしば±10%の精度の達成も容易ではない。これは,化学量の測定には共存する物質による妨害が伴うためであり,特に環境分析のような複雑な分析対象ではこのことが発生しやすい。
分析精度管理は,新しい計測技術の華やかな発展の裏にあり,分析化学者の地道な努力を必要とする重要な計測技術の一断面である。
計測技術部は初代不破敬一郎博士(現所長)のもとで原子及び分子分光法に基礎をおいて計測技術の発展をみた。つづいて松下秀鶴博士(国立公衆衛生院地域環境部長)のもとで,精度管理や変異原計測法について学んできた。この間研究者の関心は地球化学,生命化学へも広がりつつある。これらの基盤の上にたって,夢を見る研究,Challengingな課題へも積極的に展開をはかりたいと考えている。