流出油の光酸化と酸化物の毒性
研究ノート
牧 秀明
日本海でのナホトカ号,東京湾におけるダイヤモンド・グレース号という二つ大きなタンカー事故が発生してから4年が過ぎたが,その間にも海外ではシンガポール海峡,トルコ沿岸,南アフリカ沖,ブルターニュ半島沖,ガラパゴス諸島沖などでタンカー事故に伴う海洋における油流出は間断なく起こっている。タンカー事故により流出した油は,限られた海域に拡散し油塊が沿岸域に漂着するので一時的に激甚被害をもたらすが,量的にみると慢性的に人間の社会活動により海洋に流入している油の総量に比べるとわずかであり,後者はある試算によると年間300万トンを越えているとされる。海洋に流出した石油は,風化(揮発性成分の蒸発),微生物分解,太陽光照射等により成分変化を受ける。このうち太陽光照射による酸化・分解により,石油の成分の一部は新たに海水中に溶解するような成分に変化することが知られており(図1),これらの光酸化物を含む海水は,何らかの生態毒性が付与されていることが危惧される。タンカー事故などにより突発的に生じる流出油,人間・社会活動による恒常的に起きている流出油は共に宿命的に太陽光照射を受けて,莫大な光酸化産物を海洋中に生成していることが考えられることから,その消長や影響について知る必要があると思われる。
海洋生物には,新鮮な海水の確保の困難さや,恒常的に繁殖可能で飼育が簡単なものがなかなか見当たらないことから,ミジンコやメダカといった淡水生物のように,毒性試験に適当な試験生物が定まっていないのが現状である。海産ヨコエビ類の一種であるフサゲモクズ(図2上段)は,日本各地の護岸に付着しているムラサキイガイの隙間などに生息し広く分布する甲殻類で,比較的飼育が容易であり,恒常的に幼生を得やすいという利点をもっている。また,ある種の化合物に対して,フサゲモクズは他の試験生物に匹敵する高い感受性を有することが明らかになっている。そこでまず小規模の石油の光酸化実験を行い,海水中に溶け出した光酸化産物の急性毒性の評価をこのフサゲモクズを用いて行うことにした。それと同時に機器分析による幾つかの重油由来光酸化物質の同定を行い,急性毒性の原因化合物を検索することを試みた。
実験方法は2本の10Lのガラス瓶に海水10Lとボイラー燃料用C重油10gを入れ懸濁させた後,研究所屋上にて太陽光照射を行い,このうち1本は光を遮蔽するために全面を覆い対照区とした。太陽光照射試験は約1カ月間行い,浮遊している重油膜下の水相部を約1週間ごとに採取した。光照射区の海水のフサゲモクズ幼体に対する急性毒性の変化についてみると,光照射7日目には50%,15日目には80%,21日目と28日目には100%に達していた(図2)。一方光を遮蔽した対照区では,死亡率は10%前後と大きな変化はみられず,これは重油を含んでいない海水と変わらない値であった。照射区の海水中の溶存有機性炭素濃度は照射時間につれ増加し,最終的には光を遮蔽した対照区の約6倍に達していた。海水に溶け出した化合物について質量分析器付きガスクロマトグラフ(GC-MS)で分析したところ,光照射区では対照区には見られない芳香族ケトン・アルデヒド類やヒドロフラノンとベンゼン環と縮合したもの,インダノン類といった,元の原油には含まれない酸素を含んだ化合物が顕著に生成していることがわかった(図1)。現在,これら検出された個々の化合物についての毒性を調べているところであり,重油の光酸化により生成した水溶性成分の全体の毒性に対する寄与を検討している。
これらの光酸化産物は,石油のどの化合物から派生したのかは不明であり,その環境動態はわかっていない。今後は都市沿岸部で油膜が恒常的に浮遊している海域などでの分布や,また実験室内でこれらの化合物の生分解性や光分解性についても調べていきたいと考えている。
最後に本研究は本研究所の科学技術振興事業団特別流動研究員の樋渡武彦氏,茨城大学大学院の井澤俊二氏の多大なる御協力によりなされたものである。
特に樋渡氏はフサゲモクズを新種Hyale barbicornisとして同定・記載され,本種を使用した毒性試験を精力的に行って頂いた。この場をお借りして両氏に厚く御礼申し上げます。
執筆者プロフィール
95年大阪大学大学院博士後期課程修了,海洋バイオテクノロジー研究所契約研究員,NEDOフェローを経て国立環境研究所研究員,現在に至る。趣味 自然散策,独古典音楽鑑賞,Panzer,(飲)清酒・葡萄酒。