伝統と現代、あるいは過剰と欠乏−環境と健康の関係を研究する際の視点として−
論評
鈴木 継美
狩猟・採集民、さらには農耕民・牧畜民などの生活環境と比較したとき、現代の工業化社会の人々の生活環境はいかなる特徴を持っているのだろうか。例えば、生活環境要素の中でも最も重要なものである食物を取り上げ、ごく割り切って単純化してしまうと、現代工業化社会の食物摂取は(1)食物繊維が少なくなり、(2)脂肪、砂糖、ナトリウムの摂取量が増加している、という特徴を示している。
私たちがパプアニューギニア西州低地に住むギデラ族(焼畑耕作、サゴでん粉採取、狩猟または漁労に依存している人々である)の食物を分析した結果を日本人・欧米人等の場合と比べて見てもこの差は歴然としている。ギデラ族の場合、他の栄養素さらに汚染元素の摂取量を細かく見ていくとそれぞれに興味深い所見がある。彼等のマグネシウム、カリウム、鉄、マンガン等の摂取量は多く、水銀の摂取量は日本人並み、そして鉛・カドミウムの摂取量はずっと少ない。ギデラ族の側から見れば日本人は食物繊維不足、ナトリウム過剰、さらに鉛・カドミウム摂取過剰ということになる。
この伝統社会と現代工業化社会の比較の結果は実験的にあるいは疫学的方法を用い、環境の健康影響を研究しようとする場合に見逃すことのできない重要な課題となる。とりわけ地方による差、民族間の差を取り上げるとき、遺伝的要因と並んで、生活環境要因の分析を徹底的にやる必要があること、さらに伝統社会が文化変容を起こしている場合に、生活環境要因がどの部分でどのように変化しているかを把握する必要があることを示している。
話は食物だけに止まらない。生活環境要素の中で健康に直接にかかわってきた各種の病原微生物、寄生虫を取り上げると対比はさらに鮮明になる。生活集団が小規模で遊動的な生活を送っており、他の集団との接触が少なかった狩猟・採集民の場合、規模が大きくなり定着し始めた農耕民の場合、さらに大規模な人口集積が起こり都市が形成された場合、現代科学・技術に依存して大規模集合生活を送っている場合、等々、人類の生活様式の違いにより伝染病、寄生虫症の流行像は異なっている。
ヒト(ホモ・サピエンス)はその進化の歴史の中で最も長い期間(300万年?)狩猟・採集民として生活してきた。その際に彼等の生活環境がどの程度多岐に分化していたか、その中でヒトはどのようにして適応を果たしていたのかについて分かっていることは少なく、分からないことが多い。その時代の生活環境に対する生物学的適応の結果として我々は何を受け継いでいるのか、そして現在の生活環境において何を失っているのかについて配慮しながら、人間の作り出した新しい環境の影響を評価しなければならない。