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環境庁水質保全局水質管理課長 浜田 康敬

 海野英明氏(元国立環境研究所研究企画官・環境情報センター専門官)が去る5月4日夕刻、国立名古屋病院において永眠された。弱冠39歳であり、言葉に尽くせない惜しさで一杯である。

 海野氏は、昭和52年に東京大学修士課程を修了し、厚生省に入省した。厚生省において、広域臨海環境整備センター法の制定業務に携わるなど、主として廃棄物行政を担当した後、昭和62年4月に国立公害研究所の研究企画官に就任した。

 私にとって、彼は大学・職場の後輩に当たるが、本格的な出会いは私が昭和63年7月に同研究所の主任研究企画官に着任して以降であった。企画官室の新参者であった私に対して、研究企画官諸氏が様々教えてくれた中で、海野氏から「つくばに住居を構えた方が良い。」と強く助言してくれたことが印象に残っている。彼が言いたかったのは、「東京から通勤していたのでは、いずれ霞ケ関に戻るのだという気持が断ち切れず、研究所の業務に対して中途半端な姿勢になってしまうのではないか。」ということのようであった。私として、在任中は常にその言葉を戒めとするよう心掛けたが、海野氏の並々ならない仕事に対するひたむきさ、研究所への情熱を垣間見た気がしたものであった。

 研究所にとって、海野氏が在籍した時期は大きな転換期であったことはいうまでもない。特に、発足以来の全面的な組織改革に当たっては、研究企画官が立案や調整の業務の中心になったために、皆に大変苦労をかけることとなった。昭和63年秋から始まった、改組の方向を定めるための所内検討会と評議委員・専門委員の先生方による検討の結果をとりまとめる段階は、大橋氏(現阿寒国立公園川湯管理官事務所)が担当してくれたが、同氏が転出した平成元年4月以降は、海野氏が中心になり、研究職から研究企画官に加わった井上、渡辺両氏が助けるという体制で難局を切り抜けてくれた。

 組織定員要求のための膨大な資料作り、環境庁と総務庁に対する幾度にもわたる説明、所内検討会のための原案作り、様々な所内調整等々、数え上げれば切りのない多大な業務を毎日夜遅くまで、時には日曜出勤も辞さずに処理してくれた。海野氏の骨身を惜しまない奮闘振りには、企画部門の責任者として本当に頭の下がる思いであった

 環境庁との折衝や所内の難しい利害調整の仕事についても、彼は率先して動いてくれ、頼もしい限りであった。持ち前の大きな声で単刀直入に話す様子を見てハラハラすることもあったが、後にしこりが残るようなことがなかったのも、彼の責任感の強さと研究所への他意のない熱意が聞く人に響いたからではなかっただろうか。

 組織定員要求に対する内示が予想外の好結果となって一段落した後、平成2年に入ってからも、海野氏は「地球環境研究総合推進費」の枠組み作り、研究所の支援業務をも担ってくれる財団法人「地球・人間環境フォーラム」の設立準備などのために、休む間もなく奔走してくれたことも忘れられない。

 海野氏が自らの病気について、初めて私に打ち明けてくれたのは、目の回る忙しい時期が一応過ぎた頃に彼が急にやつれて見えたので、体調を尋ねた時だった。内密にして欲しいと前置きして、数年前から白血病であることが判っていて治療を続けていたこと、いずれ手術を受けるかも知れないが、それまで体力の続く限り研究所のために働かせてもらいたいことなどを淡々と話してくれた。次第に体を蝕む病魔と人知れず闘いながらもその苦悩を全く表に出さず、人一倍の熱意で困難な仕事に立ち向かってくれたことへの敬服の念と、そうとは知らずに厳しい仕事を託してしまったことへの悔恨の気持が交錯して、返す言葉もなかった。

 海野氏が人生の最後にかけた国立環境研究所への強い情熱を思うと、研究所がますます活力ある優れた機関としてまい進することが、何よりも彼の死へのはなむけになるのではないだろうか。

 今でも海野氏が不意に現われて、あの大声で呼びかけてくれるような気がして、彼の死が実感とならないのは私だけではないと思う。どうか安らかに眠って欲しい。

(はまだ やすたか)

海野英明の写真