ダイオキシンは「特殊化学物質」か?—有害な化学物質の包括的な管理のために—
遠山 千春
1999年3月に小渕総理をヘッドとするダイオキシン関係閣僚会議において,ダイオキシン対策の基本指針が定められた。これを受けて,1999年6月には,様々な行政施策に加えて,我が国における耐容一日摂取量(4pgTEQ/kg 体重/日)注)の設定がなされ,環境への放出を削減し,今後の調査研究を積極的に行い,国内外に情報を発信することなどが謳われた。
ところで,1998年5月にジュネーブの世界保健機関で開催されたダイオキシン類の耐容一日摂取量を見直すための専門委員会に参加して痛感したことは,我が国からの行政面及び学術面でのダイオキシンに関する情報発信がきわめて貧弱なことであった。議論のたたき台となる文書に盛り込まれた日本の耐容一日摂取量は,1984年当時の100pg/kg 体重/日という値であり,また,日本から発信された引用文献は極めて限られたものであった。前者の行政面における発信は,「国民にわかりやすい情報の公開」という行政方針にもとづき,試行錯誤的な部分も多いが前進している。他方,学術面における発信の遅れは,日本全体をみると取り戻すには今しばらく時間がかかりそうである。その理由は,日本の研究者集団の能力が諸外国に比べて劣っているからではさらさらない。ダイオキシンという「史上最強」の毒物を用いた研究をすることに伴って発生するゴミや実験排水・排気処理などの安全性の面で,多くの大学や研究所には適切な施設がないと判断され,研究を遂行しにくい状況にあるからである。
たしかに,ダイオキシンは,急性毒性試験の指標である半数致死量の数値からみると史上最強の合成化学物質である。しかしながら,毒性が高い分だけ一度に実験動物に投与する量は少ないのは自明であろう。具体例を示そう。国環研でこの1年に動物実験に使用したダイオキシンの総量は0.24mg であった。一方,平成11年ダイオキシン排出抑制対策検討会報告によると,平成10年度の1年間にダイオキシン類が大気環境へ放出された量(推定)は,我が国全体の一般廃棄物焼却施設から1340g,大学・研究所を含む事業所においてゴミを焼却することにより345g,喫煙により13.4g(最大),自動車排出ガスにより2.1g(いずれもTEQ換算値)である。
ダイオキシン投与の動物実験を行う際には,一時的にせよ,高濃度のダイオキシンを含む溶液を扱うので細心の注意を払うこと,そのためには他の施設から隔離された一定水準以上の管理区域が必要である。そのため,国環研においては,ダイオキシンをその他の化学物質よりも厳しく管理をするために「特殊化学物質」と呼び,取扱い指針(内規)を定めている。しかし,リスクを限りなくゼロに近づけるために過剰な施設整備が要求されることは,研究費をより重要な研究や施設整備に投資することを妨げることにもなる。
国環研は,上記の動物実験に直接に携わる研究者から,有害化学物質を全く扱わない研究者,ならびに研究支援の人々から成り立っており,国環研を構成する個々人のダイオキシンの危険性に対する認識と,その認識に応じた「怖さ」のレベルも様々である。また,危険性がある物質を自分の近隣で扱わないでほしいと思う気持ちを持つことも自然であろう。しかし,国環研の主要な使命のひとつは,環境リスクの削減のために役立つ研究を行うことである。従って,自分自身及び周辺の人々へのリスク,ならびに周辺環境に対して研究に起因する汚染を限りなくゼロにすることは当然である。また,周囲の人々に,リスクについての説明と周知,いわゆるリスクコミュニケーションを十二分に行うことにより,理解をうることも極めて重要であろう。しかし,一般社会の日常生活の場と職場におけるダイオキシンに対する態度は,おのずと異なったものになるのではないだろうか。
大学・研究所の通常の実験室において,現実には,単位量あたりの毒性は弱いけれども使用量が多いために,周囲への拡散とそれに伴うヒトへの暴露の可能性が高い有機溶媒など多種類の化学物質が使用されている。1999年7月には,「特定化学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律」(PRTR法)が公布された。有害性のある化学物質の環境への排出量及び廃棄物に含まれての移動量を登録して公表することにより,有害化学物質の管理の基礎が整備されたことになる。ダイオキシンのみならず,様々な有害化学物質による健康リスクを,喫煙はじめ日常生活上で発生する様々なリスクに対する相対的なリスクとして,いかに把握し包括的に管理するかについて,国環研がモデルを提示する時機が到来しているように思われる。
注)TEQ:ダイオキシン類に分類される物質群の総量を,ダイオキシン類の中で最も毒性が高いダイオキシンである2,3,7,8-四塩素化ダイオキシンに対する相対的な毒性を基準にして換算した量であり,毒性等価量と呼ばれる。
執筆者プロフィール:
環境保健研究を志したのは,60年代末の大学紛争時期の勉強会がきっかけ。研究所入所後のパプアニューギニアにおける「冒険」は,人間の命と生活の質を問い直す体験となっている。
目次
- 新たな環境産業に期待する巻頭言
- 「エラい」研究所
- 輸送・循環システムに係る環境負荷の定量化と環境影響の総合評価手法に関する研究研究プロジェクトの紹介(平成10年度終了特別研究)
- 海域保全のための浅海域における物質循環と水質浄化に関する研究研究プロジェクトの紹介(平成10年度終了特別研究)
- 平成12年度地方公共団体公害研究機関と国立環境研究所との共同研究課題について
- シベリア上空における温室効果気体の観測研究ノート
- 葉の形が変化した植物を使って遺伝子組換え体の安全性評価法を開発する研究ノート
- 平成12年度国立環境研究所関係予算案の概要について
- 現実とバーチャルの共存?米国での研究生活海外からのたより
- 新刊紹介
- 表彰・人事異動
- 編集後記