疫学研究者は何をしているか−大気汚染の場合
経常研究の紹介
経常研究の紹介
大気汚染の研究と一口に言っても、様々な分野があり、それぞれ多くの研究者が活躍している。疫学もそれらの研究分野の一つであるが、大気汚染の研究にかかわっている人でも最もその実体が分かりにくいものではないかと思う。
大気汚染にかかわっている疫学者の仕事は大きく分けて3つある。これが、私が研究上興味を持っていることであり、また悩んでいることである。1つは、一般の人々がどのような大気汚染物質にどの程度曝されているか、見方を変えれば我々が日々吸っている空気にはどんな物質がどのような濃度で含まれているかということを調べるものである。もう1つの仕事は大気汚染物質を吸い込むことで生じるであろう健康に対する影響を調べるものである。最後の仕事は、これら2つの仕事を突き合わせて関連性の有無・程度を判断することである。いずれの仕事でも疫学研究の対象は人の集団である。
第1の仕事は暴露評価と呼ばれている。疫学研究に必要な対象者数は最低で数百から数千人である。これだけの人について暴露評価をしなければならない。最も良いのは小型軽量のモニターを四六時中携帯してもらい、暴露データを得る方法である。最もラフな暴露評価の方法は住んでいる地域の大気汚染レベルを暴露レベルとみなしてしまうやり方であるが、このような評価方法は問題が非常に大きいことを私は指摘してきた。主要な大気汚染物質への暴露レベルを同時に連続測定できるような携帯型モニターがあれば、大気汚染の健康影響の疫学研究は飛躍的に進展するであろう。暴露評価の仕事をしているときには、私の顔は半分大気分析の専門家のようになっている。
第2の影響評価のターゲットは気管・気管支、肺などの呼吸器である。厳密に言えば大気汚染物質の影響は生体のいろいろな場所に及ぶが、一般には呼吸器に対する影響を主に取り上げている。大気汚染の程度がひどかった時代には、有名なロンドンのスモッグ事件のように大気汚染によって死亡者が増加するようなこともあったが、現在ではそのような事例はほとんどない。今、疫学者に求められているのは、低濃度で長期に大気汚染物質に暴露されたときの慢性的な影響である。これに答えることができる研究手法は特定の集団を長期(数年から十数年)に追跡し、影響の程度を示すと考えられる指標の変化を調べることである。この仕事では呼吸器病学、呼吸生理・生化学などの分野にかかわることになる。最も困難なことは長期観察のための研究の場を設定することであるが、その道はなかなか険しい。
第3の暴露と影響の関連性を調べる仕事はもっぱら生物統計学的手法を用いた机上の仕事である。両者の関連性を修飾する因子は多数あり、解析のための統計モデルも複雑なものが要求される。そのため、常套的な統計解析では不十分なことも多く、この分野の研究も欠かせない。
ここまで述べてきたことは私がしなければならないと考えている仕事の骨組みだけであるが、それでもその内容が多岐にわたっていることがお分かりいただけると思う。疫学の研究対象は人の集団であるから、研究を具体的に遂行するためには人を動かすことができる力が必要である。研究費の多寡や研究設備の良しあしのみで研究の質が決まらないところに疫学研究のむずかしさがある。疫学は個々の手法の独創性を追い求める学問ではなく、正に総合の科学なのである。