水田除草剤の環境中残留濃度予測モデルの構築と検証
【研究ノート】
今泉 圭隆
はじめに
「モデル」という言葉でどういったことを連想するでしょうか。「モデル」の意味を辞書などで調べてみると、規範・手本、模型・見本、絵や小説など制作の対象とする人やもの、ある事象についての諸要素の相互関係を定式化したものなど複数の説明があります。環境研究の中で用いるモデルという言葉の意味も一つには絞れません。例えば、「低炭素社会実現のための環境モデル都市」の場合にはモデルは手本に近い意味ですし、「地球温暖化予測モデル」の場合には模型に近い意味です。
化学物質の環境リスク研究におけるモデルとは、環境中での化学物質の挙動をコンピューターで予測計算するモデルを意味する場合が多いです。ここでのモデルにも様々な種類があります。例えば、複数の化学物質の残留性や長距離輸送性を相対的に評価する場合には平均的な環境を“模型化”したモデルで比較することが必要ですし、特定の環境や条件での残留性を評価する場合には対象となる環境を詳細に“模型化”したモデルを用いることが必要です。実際のモデルでは、両者の要素が混在しており、その目的や目標、入力情報、前提条件などの違いによって多種多様なものが存在しています。
化学物質のリスク評価では、曝露評価と有害性評価を行います。曝露評価では、ヒトや生物がどの程度化学物質にさらされているかということを定量的に評価します。有害性評価では、どの程度の量の化学物質にさらされると、どの程度の有害な影響がヒトや生物に現れるか、その関係を評価します。曝露評価と有害性評価からそれぞれ得られた、ヒトや生物がさらされている化学物質の量や濃度と、化学物質の有害な影響の程度を比較することで、ヒトや生物に対する化学物質のリスクを評価します。
多媒体モデル
化学物質の環境中濃度は、場所や時間、媒体(大気や河川、土壌など)によって違います。化学物質ごとに高濃度になる場所や時間変動の状況、残留している媒体が違うため、環境中濃度の代表値を決定する方法は非常に重要です。生態リスク評価で考慮すべき生物種は多岐にわたり、化学物質がそれぞれの生物へ及ぼす影響も様々です。数日から数週間という比較的短い期間での曝露であっても影響が出る可能性があります。全ての場所や時間において環境中の化学物質濃度を正確に把握することは現状では不可能です。より正確なリスク評価を実施するためには、より広範囲の地域・期間における実態把握と高濃度で残留する特定の地域・期間における濃度予測がさらに必要になります。
環境中の化学物質濃度を把握する方法には、環境中濃度を実測する方法とモデルを用いて予測する方法があります。実測の場合、サンプル中の濃度をある程度正確に把握することは可能ですが、広範囲の地域・時期で状況を把握するためには莫大なコストが必要です。一方、モデル予測の場合、広範囲の地域・期間で、多種類の化学物質に関して環境中濃度を把握することが可能ですが、予測精度の高いモデルを構築することが課題になります。異なる媒体間を移動する化学物質や、残留しやすい媒体が異なる化学物質群を評価する場合には、複数の媒体中の化学物質濃度を同時に計算するモデル(多媒体モデル)を利用することになります。
対象とする化学物質
農薬は、高い収穫量を得たり、病害虫や気象変動の影響を最小限に抑えたり、少ない労働力での栽培を可能にしたり様々な利点があり、農業生産を支える上で必要不可欠なものです。ただし、使用された農薬の一部は環境中に流出してしまうため、環境保全のためにも適切に管理する必要があります。農薬類は農薬取締法などの法律で管理されているものの、複数の農薬が及ぼす生態系への影響など未解明な部分も存在します。そのため、環境中の残留農薬の実態を把握することが必要になります。特定時期に集中的に使われることや地域によって使用農薬の種類が異なることなどから、時空間的な濃度変動の全体像を農薬別に把握することが重要になります。
モデルの構築
我々は、農薬の中で特定時期に一斉に使用される水田用除草剤に着目して、より多くの農薬についてより詳細に予測することを目標にモデルの開発と検証を進めています。我々のグループは、多媒体環境動態モデルG-CIEMS(Grid-Catchment Integrated Environmental Modeling System)を開発してきました。G-CIEMSでは、日本全国を、大気は1km×1kmの格子状(大気メッシュ)に、河川や流域はそれぞれ約3万8千個の断片(ここでは河川の断片を河道と呼びます。)に分割し、空間的な関連付け(どの場所に存在する雨が、どの流域に降って、どの河川に入るかなど)を行うことで、詳細に化学物質の挙動を計算することができます(図1、ホームページにて公開中)。G-CIEMSを用いて環境中の農薬濃度を予測する場合は、それぞれの農薬に関して、いつどこでどの程度使用され、どの程度環境中に排出されるかを計算することが課題です。なお、農薬という言葉は市販されているものを指す場合と効果を有する化学物質を指す場合があり、混同されやすいため、以下一方を指す場合には、前者を農薬製剤、後者を農薬原体と呼びます。農家の方が使うまでは農薬製剤として挙動を考える必要があり、水田に撒かれた後は農薬原体として挙動を考える必要があります。
多くの農薬の予測を可能にするために、全ての農薬についての情報が入手できる基本情報を整理して、それらの情報から計算するモデルを構築しています。具体的には、農薬製剤のマニュアルに記載されている使用時期や、毎年出版される農薬製剤の都道府県別出荷量、各都道府県での農作業日程の情報などです。環境中への農薬原体排出量を計算する方法は3つのステップに分けられます。1)農薬製剤がいつ使用されるかを予測し、2)水田中の農薬原体がいつどの程度環境中に排出されるかを予測し、3)どの場所に排出されるかを予測します。都道府県別農薬製剤別の日別予測使用量を計算し、各農薬製剤に含まれる農薬原体ごとに水田中の濃度変動予測および環境中への排出量を計算し、各農薬製剤の各農薬原体の各都道府県での日別挙動という膨大な組み合わせの条件全てを計算し、集計し、約3万8千の河川断片と大気メッシュに、環境中への排出量として配分します。その後、G-CIEMSモデルを用いて計算し、各農薬原体の日別濃度変動の予測値が得られます(図2)
モデルの検証
本モデルの予測精度を検証するために、30種類以上の農薬原体について河川中の残留濃度を調査しました。モデルの予測計算を実施した26種類の農薬原体について、予測精度を検証しました。合計182組の地点-農薬原体の組み合わせのうち、171組で実測値が得られました。最大濃度とそれを記録した日(最大濃度日)を実測値と予測値で比較した結果、最大濃度の比が1/10から10までの範囲内に入っている予測精度が高い組み合わせは全体の66%に上りました。また、最大濃度日の差が2週間以内に入っている予測精度が高い組み合わせは全体の80%でした(図3)。多くの除草剤、多くの地点において網羅的に検証することによって、開発した水田除草剤の排出推定手法および多媒体環境動態モデル(G-CIEMS)が河川中の除草剤濃度を高い精度で予測できることを明らかにしました。
おわりに
実は本モデルを開発している際にはこれほど精度良く予測できるとは思っていませんでした。それは、“日本全国でなるべく多くの農薬”を目指すことに主眼を置いたため、モデル内部では非常に単純な仮定を用いていたためです。検証用のグラフ群を初めて見たときには涙が出るほど嬉しかったです。今後は、さらに予測精度の向上を目指しつつ、計算対象となる農薬を広げ、より高度な生態リスク評価に繋げていきたいと考えています。
IT革命という言葉は古臭いものになり、我々は既に氾濫した情報に囲まれています。そんな状況だからこそ、氾濫した情報の中に埋もれた貴重な情報をいかに有意義に使って問題を解決するかという課題は今後益々重要になるのではないでしょうか。今後も貴重な情報を有意義に使えるようなモデル開発を進め、さまざまな環境問題の緩和や解決に貢献していきたいと考えています。
リスク管理戦略研究室 主任研究員)
執筆者プロフィール:
業務上の必要性もありWebページの開発環境について勉強しています。その開発・改良のスピードに驚かされる一方で、“より便利に”という熱意・アイディアに触れることは研究を進める上でも刺激になります。興味の対象が広くなることによって“選択と集中”に苦慮する毎日です。