森林から窒素が流れ出す −筑波山の窒素飽和−
【研究ノート】
渡邊 未来
1.窒素化合物の増加と森林の窒素飽和
窒素は,生物にとって必須元素であり,タンパク質などの構成成分として生体のいたるところに存在します。また,大気もその78%は窒素分子で占められていますが,ほとんどの生物は,この窒素分子を自ら利用することができません。生物はアンモニアや硝酸といった窒素化合物を利用しますが,通常,これらの陸域生態系への供給量は限られています。しかし20世紀初め,大気中の窒素分子からアンモニアを合成する技術が開発され,食糧増産や工業利用を目的とした窒素化合物の大量生産と大量消費が行われるようになりました。人為的に生成される窒素化合物は,化石燃料の燃焼に伴う発生量も含めると,この150年間で10倍に増加したと推計されています。これは,我々の生活が豊かで便利になったことを間接的に示しています。しかし一方で,窒素化合物の増加は,大気や土壌,水中での窒素化合物の蓄積を招き,それが高濃度になった結果,呼吸器疾患や酸性雨,地下水汚染といった問題の原因にもなっています。
森林を例にとると,窒素化合物の増加は,窒素飽和という問題を引き起こすことがあります。窒素飽和とは,森林生態系が窒素過多な状態に陥ることです。通常,降水などによって森林生態系に供給される窒素量(窒素負荷量という)は少なく,また,その大部分は植物や微生物などに利用されるため,系外への窒素流出は極めて小さくなります(図1a)。しかし,農地や畜舎から揮散するアンモニア(NH3),工場や自動車の排ガスに由来する硝酸(HNO3)といった窒素化合物が,大量かつ慢性的に森林に負荷されると,植物や微生物の要求量を超えて生態系で蓄えきれなくなった窒素は,硝酸イオン(NO3-)として渓流水に流れ込み,系外へ多量に流出します(図1b)。NO3-流出量の増大は,水源水質の悪化や,湖沼や内湾といった閉鎖性水域の富栄養化など,様々な問題の原因となります。また,NO3-の流出はカルシウムイオンといった養分元素の流出を伴うため,植物の養分バランスが崩れ,森林衰退が生じることも懸念されています。欧米では,1980年代半ばから,人間活動に由来する窒素化合物の増加が,広範囲にわたる森林の窒素飽和を引き起こしていることが明らかになっています。では,日本の森林でも窒素飽和は起きているのでしょうか。
2.日本における窒素飽和と筑波山の水質調査
欧米の森林では,渓流水中のNO3-濃度が年間を通して1mg N L-1を超える場合,その森林は既に窒素飽和していると考えられています。日本でも,関東地域をはじめとする大都市近郊の森林では,既に渓流水中のNO3-濃度が高いことが明らかになっています。なかでも茨城県筑波山は,大気からの窒素負荷量と渓流水への窒素流出量が多いことから,窒素飽和している危険性の高い地域と位置づけられています。この筑波山における窒素飽和の手がかりを得るため,予備調査として冬季に46地点の渓流水質を分析しました。その結果,筑波山の渓流水は,確かにNO3-濃度が高く,その平均値(1.8 mg N L-1)は全国平均値(0.4 mg N L-1)の4倍にまで達していることが分かりました。
そこで,筑波山における窒素飽和の現状を詳しく調べるため,予備調査を行った渓流のうちNO3-濃度が筑波山の平均値に近い2地点(SとL)を選び,まず,NO3-濃度が年間を通して高い状態にあるのかを調べました。さらに,これらの渓流の水源となる森林(主にスギやヒノキの人工林)において,大気からの窒素負荷量はどれくらいか,土壌中の窒素はどのような動きをしているかを,降水,土壌水の水質分析によって調べました。
図2は,S・L地点で雨の降っていない時に採取した渓流水中のNO3-濃度の変動を示しています。両地点のNO3-濃度は,ある程度変動するものの,常に高いレベルを維持していることが分かりました。この結果は,森林からの顕著な窒素流出が年間を通して起きていることを示しており,これらの森林が既に窒素飽和していることを示すものと言えます。
図3は,S・L地点の森林とその近くの草地において,降水によって1年間に負荷されていた無機態窒素量を示しています。ここで,草地の負荷量に比べ,森林での負荷量が多くなっている理由は,草地で採取した降水には,大気中の窒素化合物だけが溶け込んでいるのに対し,森林の下で採取した降水には,それに加えて,大気から樹木の枝葉に付着して蓄積していた窒素化合物も溶け込んでいるためです。欧米の窒素飽和した森林では,1ヘクタール(1ha= 10,000 m2)あたりの窒素負荷量が年間10 kgを超えることが示されていますが,筑波山の2つの森林では,いずれもこの値を上回っていました。さらに,農業由来とされるアンモニア性窒素(NH4+-N)と,都市由来とされる硝酸性窒素(NO3--N)が同程度に負荷されていたことから,この両方の影響を受けた窒素化合物の大量負荷が,筑波山の窒素飽和を引き起こしていると考えられます。
図4は,S・L地点の森林土壌における,土壌水中のNO3-濃度を深さ毎に示しています。通常の森林では,大気から負荷された窒素の大部分は,土壌表層で植物や微生物に利用されるため,下層まで浸透するNO3-量は極めて少なくなります。しかし,筑波山の2つの森林では,下層のNO3-濃度も高かったことから,窒素が土壌中を下方浸透していると考えられます。これは,大気からの窒素負荷量が過多であるために,負荷された窒素を表層で消費しきれないことが主な原因と考えられますが,それに加えて,いずれの森林も高林齢化しているため,生態系の窒素吸収能力が低いことも原因の一つと考えられます。
以上,2つの森林で得た結果は,筑波山の他の森林にも当てはまると考えられます。つまり,渓流水中のNO3-濃度が高い森林では,農業および都市由来の窒素化合物が大気経由で大量負荷されており,負荷された窒素を生態系が利用しきれないために,窒素が土壌中を下方浸透して,NO3-として渓流水に流れ出ていると推察されます。さらに,これは筑波山に限ったことではなく,大都市周辺の多くの森林でも,同様の理由により,窒素飽和は起きているものと予想されます。
3.今後の展望
では,窒素飽和を改善するにはどうしたらよいのでしょう。もちろん,農業における過度な窒素利用を抑えることや,近距離での自動車使用を控えるなど,窒素化合物の排出量を減らす努力は必要不可欠です。一方,森林に目を向けると,筑波山でも低木や草など下層植生が豊富な森林では,渓流水中のNO3-濃度が低い傾向にあります。これは,下層植生が多いことで,表土の流出が抑制され,土壌有機物が蓄積しやすくなった結果,土壌中に蓄えられる窒素量が多くなり,森林からの窒素流出が起きにくくなっているのではないかと考えています。このことを明らかにするため,現在,筑波山の窒素流出量が多い森林と少ない森林において,下層植生の状態や土壌中の窒素動態を調べ,窒素流出量の違いを引き起こす要因を調べています。将来的には,これらの結果から,窒素流出の抑制効果をねらった人工林の管理方法を構築したいと考えています。
土壌環境研究室)
執筆者プロフィール
バドミントン,故郷の桜島,饅頭が大好きです。スポーツを通して親しくなった人たちを次々に巻き込みながら研究を進めています。野外調査や実験が中心のため,このようなスーツ姿は非常に稀です。