感受性要因の解明にむけて
【シリーズ重点研究プログラム:「環境リスク研究プログラム」から】
藤巻 秀和
背景
環境の汚染による健康影響が社会問題として取り上げられるときに,きまって指摘されるのは,弱い集団が影響をうけやすいということです。弱い集団とはどのような集団でしょう。感受性の高い集団でしょうか。ところで,感受性という言葉は,さまざまに定義されていますが,我々は化学物質に対する感受性というときには,化学物質による影響をうけやすい性質ととらえています。弱い集団は,感受性の要因をたくさん抱えている集団とも考えられます。では,要因としてはどのようなものが考えられるでしょうか。遺伝子の違いという要因により化学物質の影響をうけやすいこともあれば,育ってきた環境と遺伝子とにより形成された体質が影響をうけやすい要因とも考えられます。また,個人の成長を考えたときに,胎児や小児,大人あるいは老人という年齢の違いという要因により影響をうけやすいこともあれば,男女の性別の違いという要因による影響のうけやすさも考えられます。
プロジェクトの目的
化学物質の健康への影響について現在多くの問題が提起されていますが,一つには低濃度の化学物質による健康影響です。低濃度の揮発性化学物質による障害,つまりシックハウス症候群や化学物質過敏症への関与があります。一般の人が反応しない低い化学物質の濃度でも,それを吸い込むことによって体調の不良を生じる鋭敏な集団が存在するということが報告されています。また,近年増加している喘息,花粉症,アトピー性皮膚炎などのアレルギー性疾患や子供の注意欠陥や多動性などの障害に有害化学物質が関与しているのではないかと疑われています。いずれもそれらの発症に化学物質がどのようなメカニズムで,どのような割合で関与しているのかは明らかになっていません。
環境リスク研究プログラムは,4つの中核研究プロジェクトからなっていますが,その中で行われている我々の中核P2「感受性要因に注目した化学物質の健康影響評価」プロジェクトでは,以下の3つの研究に取り組んでいます。1)異なる遺伝子を持つ動物間で低濃度化学物質を曝露したときの影響を比較することにより感受性関連遺伝子を明らかにする研究,2)遺伝的に同一な動物モデルを用いて,妊娠から出産をはさんだ発達段階の違いにより化学物質に対する影響に差があるか否かを明らかにする感受性期を解明する研究,3)アレルギー疾患が一つのアレルゲンのみでなく,化学物質を含めていろいろな環境因子の複合的な曝露によって発症しているといわれているので,それら複合影響を簡便に評価する手法を開発する研究です。
これらの取り組みは始まったばかりですが,その中で得られた一部の成果について以下に紹介します。
これまでに得られた成果
低濃度の化学物質に対する感受性関連遺伝子を解明するための取り組みを紹介します。低濃度の化学物質の曝露により脳内でどのようなことが起こって,脳の機能がどのように変化するのか探ることは重要です。基本的には,直接の細胞死や個体死を導くような高濃度の曝露の影響ではないので,神経系のかく乱作用が疑われます。シックハウス症候群や化学物質過敏症の症状としては,吸入した化学物質が接触する部位である嗅覚器や皮膚・神経の刺激,めまい,頭痛,記憶力の低下などがあげられています。
大脳の辺縁系は,大脳新皮質の内側にあり進化の過程において古い領域とされています。辺縁系にある海馬の記憶機能にかかわる遺伝子への影響について研究結果を紹介します。神経細胞同士を接続する部分であるシナプス間での情報伝達は脳の働きにとって欠かせないもので,記憶が形成される分子メカニズムとして,神経伝達物質であるグルタミン酸をうけとる受容体は中でも重要な役割を果たしています。この受容体が活性化されると神経細胞外にあるカルシウムが神経細胞の中に流れ込み新たな記憶にかかわるタンパク質の合成を導く経路が活発に働き出します。それに応じてシナプス構造の形態が変化して神経細胞同士のつながりが密になります。そこに,新たな記憶というものが形成されると考えられています。このグルタミン酸をうけとる受容体には多くのサブユニット(構成要素)がありますが,その中でグルタミン酸受容体GluRε1(NR2A)とGluRε2(NR2B)が重要とされています。記憶力の優れている幼児期や小児期にはNR2B遺伝子が多く発現して働いており,大人になるとNR2A遺伝子が働くようになっています。ちなみに,NR2B分子を過剰発現するようにしたトランスジェニックマウスは,とても記憶能力の良いマウスであったということです。小さいころの記憶力のよさは,NR2B分子に依存しているようです。
我々は低濃度のトルエンを全身曝露したマウスを用いて,記憶にかかわる海馬でのグルタミン酸受容体遺伝子の発現への影響をしらべてみました。NR2A遺伝子の発現にはトルエン曝露の影響がみられませんでしたが,NR2B遺伝子の発現は有意に増加していました。受容体遺伝子の発現が増強することは,神経細胞内のカルシウムの流入から遺伝子活性化へとつながるシグナルにも変化が見られることを示しているので,さらに細胞内のリン酸化酵素分子の動きを追跡しました。カルシウムが結合することによってタンパク質リン酸化を促進するカルシウム/カルモジュリン依存性タンパク質リン酸化酵素IVの遺伝子発現はトルエン曝露で有意に増加していました。そこで,記憶にかかわる遺伝子の発現増強につながるかどうかについて核内転写調節因子の動きを調べました。cAMP応答配列結合タンパク質の遺伝子発現は,トルエンの曝露をうけたことにより有意に増強しており,グルタミン酸受容体の活性化が核内転写調節因子の増加,さらに新たな記憶遺伝子の発現を誘導する可能性が示唆されました。
次に,低濃度トルエン曝露の影響をより短期に簡便な方法で探ろうと,マウスを用いて,曝露方法を鼻部曝露にして実験を行いました。その結果,やはりマウスの海馬においてグルタミン酸受容体遺伝子の発現の増加が認められました。グルタミン酸受容体遺伝子の発現増強は,記憶機能の増強と同時に炎症を導くプロスタグランジンE2やスーパーオキサイド産生などを増加することが報告されていましたので,炎症とのかかわりについて検討しました。炎症の制御に働いている免疫系のリンパ球の役割に注目し,Tリンパ球を欠損しているヌードマウスと正常のマウスとでトルエン曝露による影響を比較しました。その結果,ヌードマウスではグルタミン酸受容体遺伝子の発現に影響はみられませんでしたが,Tリンパ球の存在している正常マウスではその遺伝子発現に有意な増加が認められました(図(A))。そこで,海馬領域における神経細胞の分布の違いを免疫組織学的に検討しましたが,両マウス間の比較においても(図(B)),それぞれのマウスにおけるトルエン曝露群と対照群との比較でも差はみられませんでした。
今回の低濃度トルエン曝露では海馬における神経細胞の分布や数への影響は確認できませんが,神経細胞間で情報を伝え,記憶の保持に重要なシナプス受容体遺伝子には影響がみられることがわかってきました。トルエン曝露による神経情報の伝達系におけるかく乱が推察されます。また,この影響は脳内において生体防御の働きをしている免疫機能と関連することが示唆されました。
化学物質過敏症の患者にトルエンを曝露して脳内での変化を機能的磁気共鳴診断装置で測定した結果と健常者に曝露したときの結果を比較すると,化学物質過敏症の患者の側頭葉内側部や視床下部などの活動が,健常者の反応と比べて増加したという報告が平成17年度厚生労働科学研究費補助金健康科学総合研究事業報告書に記載されています。これらの領域は,我々がマウスにトルエン曝露して変化がみられた領域と一致している部分があります。このように,動物の系統や種を変えて行った研究での成果を積み上げ,ヒトでの影響との比較を行いつつ,感受性の要因を探る研究を続けています。
感受性期の解明に関する研究の化学物質による胎児や小児への健康影響に関する現在の問題点,あるいは今後の研究戦略については,本号の環境問題基礎知識でふれているのでそちらを参照していただきたい。
(ふじまき ひでかず,環境リスク研究センター高感受性影響研究室室長)
執筆者プロフィール:
今年見た映画の中で「明日の記憶」は,無意識の中で記憶が消えてゆく怖さが印象的でした。記憶情報の保存が神経細胞ファイルで可能になれば,記憶の復活も夢ではないだろう。透明マントも理論的には可能だといわれているので?