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“酸性雨について”

環境問題豆知識

佐竹 研一

 酸性雨という言葉がマスコミに登場するようになって久しい。この言葉は地球環境問題としてのいわゆる酸性雨問題を象徴する用語としてすでに市民権を得ているように思える。しかしこの“酸性雨”という言葉には色々な側面があり,狭い意味で用いられる時と広い意味で用いられる時,市民の間で用いられる時と研究者の間で用いられる時等では内容が異なっていることが多い。“酸性雨”問題には関心を持っておられる方々も多いのでその辺の事情を少し説明してみたいと思う。

 酸性雨(acid rain)という言葉が初めて用いられたのは英国で1872年のことである。当時英国では1750年頃から始まった産業革命が全盛期を迎え,各地で大気汚染物質が大量に発生し,雨水や河川水は汚れ大きな環境問題となっていた。その当時雨水を採取しその化学成分を測定した R.A.Smithは雨が酸性であることを知り,acid rainと名付けたのである。この言葉がその後環境汚染と共に世界各地に広まってゆき,日本語では酸性雨,中国語では酸雨となるのである。そしてacid rainとその影響についての研究は1970年代以後盛んになる。その中で,研究者は acid precipitationという言葉を酸性の雨や雪や霧に対して用いるようになった。つまりacid precipitationはいわゆる “水”を指す言葉として登場したのである。しかし,大気中の酸性物質の研究が進む中で,“水”だけでなくいわゆる粒子状やガス状の酸性物質も大気中の酸性物質の中でかなりの割合を占め,水や土壌や森林への影響を考える上で重要であることからwet depositionとdry depositionと言う言葉が対で登場し,併せてacid depositionと呼ばれるようになってきた。そしてwet depositionの日本語訳は湿性降下物,dry depositionの訳には乾性降下物,acid depositionに対しては酸性降下物が用いられるようになった。そしてその後,この訳語に新たに湿性沈着,乾性沈着と呼ぶ言い方が登場してくる。それは例えば,ガス状酸性物質等が樹木の葉の裏面にも沈着する所から,いわゆる降下物(fallout)だけでなく沈着物としての評価も重要であると言うのがその理由である。しかし,乾性沈着の定量的評価は極めて難しく,実際にある手法で採取され定量された酸性物質の量をどう表現するかについてはまだまだ議論がある。このような背景から現在日本では,“降下”と“沈着”の両用語が混在し,両者を同義語として用いる研究者もいる。一方,このような議論が日本で行われている間に英語のacid depositionの方は更に進化し,acidic depositionという用語が登場する。ある米国人の解説によるとacid depositionと acidic depositionとでは意味が異なり,acidic depositionの場合には酸性物質だけでなく,それ自身が酸化されて酸性物質になりうるものやその酸化に寄与するものまで含めて用いられているというのである。それではこのacidic depositionの日本語訳はどうなるのであろうか。日本では酸性雨関係の研究者の中でもacid depositionとacidic depositionの違いを認識していない方が少なくない現状であり,まだその答えは出ていない。

 以上は酸性雨と言う用語をめぐる概略の歴史であるが,環境全体を見ると酸性雨,酸性霧,酸性雪等の他に,酸性湖,酸性河川,酸性土壌,酸性岩等の言葉がそれぞれの歴史を背負って用いられており,全体としては必ずしも整合性があるとは言えない。それぞれの用語の歴史は,新しい研究成果が新しい用語や新しい解釈を生み,その内容が変遷しているということを伝えていて興味深いが,自然環境を構成する大気や湖沼・河川や森林・土壌等は相互に密接に関係しており,用語をめぐる相互理解はますます重要になって来ている。そして又,このような視点とは異なる別の視点として,研究者を中心とする様々な用語や訳語や特別の定義の登場は市民にとっての“酸性雨”を分かりにくいものにしていると言う意見が存在する。つまり,全体としては様々な専門用語が存在する一方で,こまかな議論は別にして,大気中に存在する酸性物質の総称としてのいわゆる“酸性雨”は,今後も市民権を持ち続けるように思われる。

(さたけ けんいち,地球環境研究グループ 酸性雨研究チーム総合研究官)