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ヒ素の化学形態別分析における質量分析法の応用

【研究ノート】

小林 弥生

 中国・インド・バングラディッシュなどにおいて,高濃度のヒ素が地下水に混入し,それを生活用水として利用している住民に深刻な被害を与えています。また,日本においても森永ヒ素ミルク中毒事件,和歌山で起きたヒ素混入カレー事件,茨城県神栖市での地下水混入など,ヒ素化合物による汚染は環境および社会的問題となっています。しかし,その一方でヒ素は,半導体材料(ガリウムヒ素: GaAs)として各種工業製品に利用されたり,各種治療薬としても用いられてきました。ペニシリンが発見される以前は,ヒ素化合物であるサルバルサン(C12H12As2N2O2)が梅毒の治療薬に使用されていました。また,近年,三酸化ヒ素(As2O3)が,急性前骨髄球性白血病の治療薬(トリセノックス)として日本でも厚生労働省により承認されています。

 ヒ素と一口に言っても様々な種類があり(図1),その化学形態によって細胞内への取り込み,排泄,毒性などが大きく異なります。ヒ素は海産物にも多く含まれていますが,それらの多くはヒ素糖やアルセノベタインと呼ばれるほとんど無毒のヒ素化合物です。しかし,ヒ素混入カレー事件で使用された3価の無機ヒ素(亜ヒ酸)や途上国最大の環境問題のひとつになっている5価の無機ヒ素(ヒ酸)は,発癌も含む多臓器疾患を起こすことが知られている毒物です。生体内に吸収された5価の無機ヒ素化合物は,還元,メチル化を繰り返し,最終的に5価のジメチル化体(DMA(V))として体外に排泄されると考えられています。尿中の主たる代謝物がDMA(V)であることと,毒性が無機ヒ素化合物と比較し低いことから,メチル化はヒ素の解毒機構と考えられてきました。しかし,最近になってそれらの中間体である3価のメチルヒ素化合物(MMA(III)およびDMA(III))が非常に低濃度でDNA損傷などを引き起こすことや,その毒性が無機ヒ素化合物よりも強いことが報告されたことから,メチル化代謝は毒性発現であると考えられるようになってきました。ヒ素の摂取により発癌に至ることは疫学的調査からも明らかとなっており,ヒ素の代謝過程で生成する中間体が発癌物質であると考えられていますが,その毒性発現機構はいまだ明らかになっていません。ヒ素の毒性発現および解毒機構を明らかにするためには,総濃度だけでなく,さまざまな化学形態のヒ素代謝物をできるだけ正確に分析し,出発物質のみならず,代謝物も含めた毒性評価を行う分析毒性学的研究が重要となります。現在,生体内におけるヒ素化合物の酸化還元状態がヒ素の毒性発現および解毒に密接に関与していると推定し,分析毒性学的手法を用いてヒ素の代謝について研究を進めています。

ヒ素化合物の例示の図(クリックで拡大表示)
図1 自然界および生体内に存在するヒ素化合物の例示

生体試料中のヒ素の化学形態別分析は,試料を高速液体クロマトグラフ(HPLC)で分離し,その溶出液を誘導結合プラズマ質量分析器(ICP-MS)や発光分析器(ICP-AES)に直接導入して,連続的かつ高感度に分析を行うHPLC-ICP-MS/AES法と,溶出液をエレクトロスプレーイオン化質量分析器(ESI-MS)に導入し,目的物質の分子量を測定するHPLC-ESI-MS法を用いて行っています。ICP-MS法は元素特異的手法であるために,高感度にヒ素化合物を分析することが可能ですが,未知の化合物の同定は困難です。一方,ESI-MS法はICP-MS法と比較し目的物質の分子量が分かりますが,試料中の夾雑物に影響されやすいという欠点もあります。そこで,両者の長所を活かしヒ素の分析に応用しています。図2と図3にその分析例を紹介します。これは,ラットに対して亜ヒ酸を静脈投与した時に,胆汁中に排泄されるヒ素の代謝物を化学形態別に分析した結果です。胆汁をHPLC-ICP-AES法で測定すると(図2),ヒ素を含む2つのピーク(保持時間420秒と780秒)が検出されました。ICP-AES法は多元素を同時に測定することが可能なため,ヒ素と同時に硫黄も測定すると,ヒ素と同じ保持時間にピークが検出されました。これは保持時間420秒と780秒に検出される化合物がヒ素と硫黄を含んでいることを意味しています。また,硫黄の化学形態別分析の結果から,ヒ素の投与により,高濃度のグルタチオン(C10H17N3O6S ; GSH)も同時に胆汁中に排泄されていることが分かりました。図3には,同じ試料をHPLC-ESI-MS法で分析した結果を示しました。合成したCH3As(GS)2(MMA(III)にGSHが結合した化合物)およびAs(GS)3(亜ヒ酸にGSHが結合した化合物)との比較から,胆汁中に検出された保持時間が420秒のピークはCH3As(GS)2であり,保持時間が780秒のピークはAs(GS)3であることが明らかとなりました。胆汁中におけるAs(GS)3とCH3As(GS)2の安定性を調べた結果,胆汁中では不安定でありAs(GS)3は亜ヒ酸に,CH3As(GS)2はMMA(III)へと加水分解されることが分かりました。また,胆汁に添加したGSHは濃度依存的にAs(GS)3とCH3As(GS)2の加水分解を抑制し,その結果としてAs(GS)3とCH3As(GS)2が胆汁中で安定に存在することが分かりました。これらの結果から,GSHはAs(GS)3とCH3As(GS)2を安定化させ,毒性の高い3価ヒ素化合物への加水分解を抑制していることが示唆されました。

分析結果の図(クリックで拡大表示)
図2 HPLC-ICP-AES法を用いたラット胆汁中ヒ素代謝物の化学形態別分析
(a)-(d)はヒ素,(e)-(h)は硫黄を測定した結果。(a) 合成したAs(GS)3,(b)合成したCH3As(GS)2,(e) GSH,(f) GSSG(酸化型グルタチオン),(c)と(g) 対照群の胆汁,(d)と(h) ヒ素投与群の胆汁。
HPLC-ICP-AES法は標準物質と試料中の化合物の保持時間の一致により,その化合物の化学形態を同定します。例えば,(d)と(h)の両方とも保持時間780秒にピークが検出されています。これは,保持時間780秒で検出された化合物がヒ素と硫黄を含んでいることを示しています。また,(d)の420秒のピークと780秒のピークは,それぞれ合成したCH3As(GS)2の保持時間(b)とAs(GS)3の保持時間(a)と一致したことから,ヒ素を投与したラットの胆汁中にはCH3As(GS)2とAs(GS)3が存在していることが分かりました。
分析結果の表(クリックで拡大表示)
図3 ヒ素を投与したラットの胆汁中ヒ素代謝物のHPLC-ESI-MS分析
 (a)は合成したCH3As(GS)2,(b)は合成したAs(GS)3,(c) と(d) はヒ素投与群の胆汁を分析した時の正イオンマススペクトルを示しました。(a)と(c) は保持時間420秒のピーク,(b)と(d) は保持時間780秒のピークを分析した結果です。
ESI法の大きな特徴として,多価イオンの生成が起こることが挙げられます。正イオンモードならば試料分子にプロトン(H)が付加した正の多価イオン[M+nH]n+ が生成します。マススペクトルは縦軸に生成したイオンの強度を示し,横軸は質量/電荷数(m/z)を示しているので,多価イオンが生じ電荷数が増えるとm/z値が低くなります。合成したCH3As(GS)2のマススペクトルではm/z が703と352にピークが検出され,合成したCH3As(GS)2と保持時間420秒に検出されたラット胆汁中の化合物のマススペクトルが一致したことから,ヒ素を投与したラットの胆汁中にはCH3As(GS)2が存在していることが分かりました。

 分析技術の発展と共に,数々の新たなヒ素化合物が報告されるようになってきました。このような観点から,今後,質量分析によるヒ素の化学形態別分析が,ヒ素化合物の代謝機構ならびに毒性発現機構の解明に応用されることが期待されます。

(こばやし やよい,環境健康研究領域
分子細胞毒性研究室)

執筆者プロフィール

小林弥生の顔写真

 育児中で仕事にかけられる時間は限られ,焦ることもありますが,娘(1歳)と過ごす時間も大切にしたいと思っています。娘の笑顔が一番の栄養剤になっています。もっと時間が欲しいと思う今日この頃です。