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北極成層圏における雲粒の重力落下とオゾン層

環境問題基礎知識

入江 仁士

 冬になると北極域では,稀に,虹色に色付いた美しい雲を地上から見ることができます(写真)。極域の上空で見られる美しいものとしてオーロラが有名ですが,この虹色の雲はオーロラが発生する高度(およそ90~300km)よりもはるかに低高度で発生します。しかし,我々が普段目にする雲が発生する対流圏(およそ0~11km)よりも高高度で発生します。この虹色の雲は極成層圏雲(Polar Stratospheric Cloud;PSC)と呼ばれ,一般には,高度20km付近で発生することが知られています。PSCはたくさんの小さな雲粒(PSC粒子)の集まりです。これまでの研究から,このPSC粒子の中でも比較的大きな雲粒は重力によって落下し,北極オゾン層を破壊する仕組みの中で重要な役割を果たしていることが分かってきました。では,北極成層圏で起きるPSC粒子の重力落下とは具体的にどのような現象なのでしょうか?また,この現象はオゾン層破壊問題にとってどのような重要性を持っているのでしょうか?この2点について以下に述べたいと思います。

PSCの写真
写真 2003年1月にスウェーデン北部で発生した極成層圏雲(PSC)

 まず,天気の観点から,成層圏で起きるPSC粒子の重力落下を対流圏で起きる降水過程(雲粒(雨粒)の重力落下)と比べてみましょう。対流圏では,水蒸気を多く含んだ空気は世界中のいたるところで気流の上昇によって断熱的に冷却され,雲粒を形成します。この雲粒は周りの空気から水蒸気を取り込んで,目で見えるほどの大きな雨滴に成長し,1mmの雨粒の場合では時速約10kmの速さで落下します。そのため,完全に蒸発せずに地上まで落下できるので,日々の天気に影響を与えます。

 一方,成層圏は対流圏に比べてとても乾燥しています。また,対流活動が起きず,PSCが発生する温度(高度20kmで約-78℃)まで気温がなかなか低下しません。実際,北極のPSCの発生時期は冬に限られ,ほとんど発生しない年も多々ありました。また,PSCが発生する高度範囲も高度20kmあたりのわずか数kmに限られます。さらに,大きなPSC粒子でも粒径は十数μmと小さく,10μmのPSCの場合,落下速度も時速約40mと遅いことが知られています。これらのことから,PSC粒子は対流圏まで落下する途中でほとんど蒸発してしまい,地上までは到達できないので,日々の天気には全く影響を与えないと考えられます。

 PSC粒子の重力落下を物理的な観点からみると,対流圏の降水過程と同様に単に「雲粒の重力落下」と言えるでしょう。ところが,化学的な観点からみるとそれらには次のような大きな違いがあります。

 対流圏で降水をもたらす雲粒は,主に水分子から成る氷晶や水滴です。その一方で,2000年冬季にNASA(米国航空宇宙局)は航空機を用いて北極成層圏の大気観測を行い,PSC粒子の化学組成を調べました。そこで得られたデータから,高度20km付近で観測された,重力落下できるほどに大きく成長したPSC粒子は硝酸三水和物(HNO3・3H2O ; Nitric Acid Trihydrate(NAT))の結晶であることが同定されました。現在のところ,北極成層圏における「雲粒の重力落下」は「NAT粒子の重力落下」として研究者の間で広く認識されています。

 では,NAT粒子の重力落下は北極オゾン層破壊の仕組みの中でどのような役割を果たしているのでしょうか?オゾン層破壊を引き起こす原因物質である (特定)フロンガスは,通常,成層圏ではオゾンと直接反応しない物質(ClONO2等)として存在しています。ところが,冬季になって北極成層圏の気温が-78℃付近まで低下すると,空気中のHNO3ガスは水蒸気と共に凝結してPSC粒子を形成します。このPSC粒子の表面で,ClONO2等は特別な化学反応(不均一反応)によって塩素ガスに変換されます。一方,大粒径のNAT粒子は重力落下することによって,20km付近のHNO3を低高度に運び,20km付近のHNO3濃度を不可逆的に低下させます。

 春になり北極域に太陽が顔を出すと,塩素ガスはオゾンを直接破壊する物質(特にClOx(= Cl + ClO))に形を変え,オゾンと反応して(触媒的に)オゾンを破壊します。この時期に,HNO3はNO2に変換された後,ClOxをClONO2に変換することによって,オゾン破壊を抑制させる役割を果たします。

HNO3 + hv → NO2 + OH
ClO + NO2 + M → ClONO2 + M
(hvは太陽光,Mは窒素や酸素などの空気分子を示す)

 しかし,NAT粒子の重力落下によってHNO3濃度が低下した空気では,NO2濃度が低く,ClOxが高濃度を維持できるようになります。その結果,オゾンを破壊する反応が長い間進行し,オゾン破壊の拡大をもたらします。このような重要性から,NATの重力落下による反応性窒素酸化物(= HNO3 + NO2 + NO + ...)の不可逆的な除去は,特に「成層圏の脱窒」と呼ばれています。

 この「成層圏の脱窒」は,将来の北極オゾン層の変動を予測する上でとても重要です。過去数十年間の観測に基づくと,今後は,成層圏における二酸化炭素等の蓄積やオゾン層の破壊自身の影響によって,成層圏の気温が低下すると考えられています。また,成層圏の水蒸気濃度が増加する可能性もあります。これらがどのような割合で今後推移するかは今のところ不確定ですが,それらの影響によってPSCの発生量が増えて「成層圏の脱窒」が拡大すると考えられています。そして,オゾン層が1980年以前のレベルに回復する時期が,現在の予測よりも遅らされるのではないかと懸念されています。

 このような重要性があるにもかかわらず,現在のところ「成層圏の脱窒」を起こすNAT粒子がどのような仕組みで形成するかは完全には理解されていません。NAT粒子が形成する仕組みの理解はオゾン層の高精度な予測に繋がります。また,大気中(主に対流圏)の雲やエアロゾルの動態の理解は地球温暖化問題のような他の研究でも重要視されています。このような大気中の雲やエアロゾルの動態を体系的にきちんと理解するために,NAT粒子が形成する仕組みの理解が糸口になるのではないかと筆者は考えます。

 最後に,知り合いのパイロットから聞いた話によると,ヨーロッパやロシア北部の上空では飛行機から時折オーロラが見えるそうです。また,民間航空機とほぼ同じ高度でNASAの航空機からPSCの写真が撮られています(写真)。このことから,PSCもオーロラと同様に民間航空機から見られるのではないかと筆者は期待しています。残念ながら,筆者はこれまでPSCを飛行機から見たことはありません。もし冬にヨーロッパに行くことがあれば,事前に,NASAのホームページで北極域の気温がPSCの発生温度(195K,-78℃)まで低下しているかを調べてみてください。そして,日本からヨーロッパへ向かうときには,北極側が見えるように飛行機の進行方向右手の座席に座り,窓の外を眺め,PSCやオーロラを探してみると面白いと思います。このような簡易の「観測」を行うことによって,環境問題への興味を深めていただけると幸いです。

(いりえ ひとし,大気圏環境研究領域)

執筆者プロフィール:

最近の趣味は海釣り。クロダイ釣りにはまっている。ウキを眺めているのが至福のとき。潮位・風・天気の変化を観察しながら研究の延長であると思い込んでいるが,現実逃避であることは否めない。