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細胞を取り巻く環境:細胞外マトリックスとその制御

古山 昭子

 どこにでもあるものが実は本当は重要なのだ,というのはよくある話です。今回紹介する細胞外マトリックスは,多細胞生物体を構成する細胞を取り巻いて存在する様々な物質の総称です。具体的にどんな物かというと,牛の“すじ”を想像してください。伸び縮みして堅いのに,加熱するとずるずるの煮こごりやプルプルのゼラチンになります。このような性質を持った細胞外マトリックスが細胞の間を埋める膠(にかわ)となり,あるいは隔てたり足場となったりします。

 多細胞生物が力学的に組織を組み立てるためには,分子が会合して不溶性の線維構造を作る細胞外マトリックスの性質が不可欠です。単分子の細胞外マトリックスと複雑な構築物とでは細胞の増殖,分化,遺伝子発現などに影響を与える生理活性は異なるので,ありふれた存在でありながら細胞外マトリックスの構造や生物学的機能は複雑で解析は簡単ではありません。実は,様々な生体の情報を蓄積できる複雑性こそが細胞外マトリックスの機能の本質であり,細胞にとっては高次細胞社会の制御に必要な情報を含む“環境”そのものなのです。

 多彩な機能と形を持った細胞から成る多細胞生物が,秩序ある世界(体)を形成するためには,適切な細胞外マトリックスが適切な量だけ作られ,適切な場所に存在することが必要です。体の表面を覆っている上皮細胞についても同様です。上皮細胞の直下にある細胞外マトリックスの構造体は,上皮細胞の底にあって膜状に広がっていることから,基底膜と呼ばれています。基底膜は上皮細胞の機能と形態を正常に保つために重要な役割を果たしています。

 これまで上皮細胞を培養しても正常な基底膜を作ることができないということが知られていました。我々は肺胞上皮細胞を線維芽細胞と一緒に培養することで,上皮細胞に基底膜を形成させることに成功しました。上皮細胞がつくる基底膜の成分である細胞外マトリックスだけでは不十分だったのです。驚いたことに,上皮細胞から離れて存在し,自らは基底膜を作らない線維芽細胞が基底膜成分の供給源となっていたのです。さらに,線維芽細胞は上皮細胞に基底膜形成を促進させる因子まで分泌していました(図1)。

細胞の図
図1 肺胞上皮細胞と線維芽細胞の共培養による基底膜形成(透過型電子顕微鏡写真)

 上皮細胞の真下にある基底膜の形成が離れた線維芽細胞によって遠隔操作されているなんて,回りくどいシステムなようにも見えます。しかしながら,基底膜の形成と正常な上皮細胞は,線維芽細胞の機能の制御にも大切なのです。

 環境汚染物質暴露は肺胞上皮細胞に傷害を与えますが,弱い傷害であれば肺胞上皮細胞は基底膜上で速やかに上皮組織を再生します。しかし強度の傷害で基底膜が破壊されると,血液中からフィブロネクチンなどの血漿成分が漏れてきます。このフィブロネクチン上では上皮組織の形成が悪くなります(図2)。正常な上皮組織形成は線維芽細胞の過度の増殖と細胞外マトリックス産生と分解とを抑制します。上皮組織形成が悪いとその抑制がかからず,例えば二酸化窒素暴露によって肺の細胞外マトリックスが過度に増加して肺線維化を,また喫煙によって細胞外マトリックスの分解が進み肺気腫を起こします。このように,上皮細胞,線維芽細胞,細胞外マトリックスは三角関係で,お互いを制御しあって正常な体を維持しているわけです。

顕微鏡写真
図2 肺胞上皮細胞の細胞骨格(アクチン染色,蛍光顕微鏡写真)
A 基底膜上では細胞骨格は細胞周囲に分布し,細胞同士が強固に接着して健常な上皮組織を形成する。
B フィブロネクチン上では細胞骨格は細胞の底面に分布して,細胞同士の接着は弱く,正常な上皮組織を形成できない。

 細胞外マトリックスは,細胞にとっての環境そのものです。どこにでもある気にもとどめない物のちょっとした変化が実は危機を含んでいる点でも環境と似通っています。今後は基底膜形成研究で得られた細胞外マトリックスに関する知見を環境汚染物質による影響評価に生かしながら,細胞外マトリックスに蓄積した複雑な生命情報を“ほぐして”いきたいと思います。

(ふるやま あきこ,環境健康部生体機能研究室)

執筆者プロフィール:

ちなみに“マトリックス”は子宮とか母体を指すラテン語を語源とします。細胞外マトリックスの命名者も,数字が縦横に並んだのをマトリックスと呼んだ人も,いいセンスしていますね。