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2015年2月28日

水銀の化学的追跡指標の高精度分析

特集 化学で読み解く環境動態
【研究ノート】

武内 章記

 第3期中期計画の先導プログラム「先端環境計測研究プログラム」において、「新しい環境トレーサーを用いた環境動態解析法の開発と計測(PJ2)」が開始されました。私たちの研究室では、「同位体をトレーサーとした環境中化学物質の動態解析手法開発」というサブテーマの中で、近年国際的な取り組みが進んでいる水銀の同位体を高感度、高精度に計測して、同位体比を迅速に算出できる分析システムの開発を行っています。

 水銀は、環境中では滞留時間が長く、生物に蓄積されやすく、そして毒性が強いことが知られている金属の1つです。しかしながら我々人間は産業革命以後、電池や温度計などの工業製品、さらには塩化ビニルモノマー等の製造で水銀を多用してきたのと同時に、火力発電所等での化石燃料の燃焼に伴い、含有する水銀を大気中に排出してきました。2002年の国連環境計画の報告書によれば、その結果、水、大気、土壌環境中の水銀濃度は産業革命以前と比較して約3~5倍に増加したと推定されました。特に大気水銀濃度は約5倍に増加したと考えられており、大気中の二酸化炭素濃度が産業革命以前と比較して約1.4倍にしか増加していないことを考えると、環境中の水銀濃度の増加は顕著です。これまでの歴史的な水銀汚染は、汚染範囲が比較的狭く、近い場所に発生源が存在していました。反対に近年の水銀汚染は地球規模であり、排出されたガス状水銀が大気を介して地球全体に拡散し、発生源から遠く離れた場所で広範囲の汚染を引き起こすことが懸念されています。さらに、環境中全体の水銀濃度の増加による人間や野生生物への健康被害も懸念されています。

 こうした水銀の環境中での挙動や動態を理解するためには、総水銀定量分析、形態別水銀定量分析、そして水銀同位体分析による実態把握が有効な手段の1つです。総水銀定量分析は、サンプル内の総水銀濃度を明らかにすることができます。そして形態別水銀定量分析は、サンプル内に存在する異なる化学形態をした水銀濃度を明らかにして、メチル水銀のような毒性が高い水銀化合物の割合を明らかにすることができます。最後に、水銀同位体分析は、サンプル内の水銀が、発生源からどのような化学反応や状態変化を介して、そこに蓄積したかを推定することができる追跡指標として期待されています。

 総水銀定量分析や形態別水銀定量分析と異なり、水銀同位体を科学的議論に耐えるものとして計測・算出するためには、今世紀まで分析技術の進歩を待たなければいけませんでした。一般的に水銀のような比較的質量が大きい元素の自然界での安定同位体比変動は0.5%以下であるために、信頼できる同位体比を算出するためには、その同位体比の変動幅の100分の1以下の精度で測定する必要があります。現在、金属元素のこうした高精度な質量分析が可能な分析装置は、表面電離型質量分析装置と多重検出器型誘導結合プラズマ質量分析装置の2種類がありますが、揮発性が高い水銀の同位体分析は、溶液の状態でサンプルを導入できる多重検出器型誘導結合プラズマ質量分析装置でしか測定することができません。

 では、その多重検出器型誘導結合プラズマ質量分析装置はどのような分析装置なのでしょうか? この質量分析装置は、イオン源に約6,000-10,000K(ケルビン)のアルゴンプラズマを備え、扇状磁場によって生成したイオンビームの質量分散を行い、複数のファラデー検出器によって、各同位体を同時に測定をすることができる装置です(図1)。例えば、水銀は質量数が196の水銀同位体から、質量数が204の水銀同位体まで、7種の安定同位体が存在しています。一般的な四重極型誘導結合プラズマ質量分析装置では検出器が1個しかありませんので、各水銀同位体を計測するためには、極わずかではありますが測定条件の変更と、時間差が生じます。そしてその測定条件の変化と時間差によって、各水銀同位体の実測値から算出される水銀同位体比の精度は3~5%程度になってしまい、自然界での水銀の同位体比変動よりも大きくなります。その一方、多重検出器型誘導結合プラズマ質量分析装置では、9個の検出器が搭載されていますので、同時にすべての水銀同位体を計測し、実測値に適正なデータ処理をすることによって0.1%以下の高精度な水銀同位体比を算出することが可能です(図2)。

図(クリックで拡大表示)
図1 還元気化・多重検出器型誘導結合プラズマ質量分析装置(水銀同位体分析システム)
図
図2 分析システムの安定性、分析精度、そして確度試験のために、水銀標準溶液(25 ng/g)を繰返し測定した時の水銀同位体比変動と、複数の研究機関によって決定された水銀標準液の水銀同位体比(認証値:赤線)との比較

 多重検出器型誘導結合プラズマ質量分析装置では様々な試料導入系を使用することができるのも大きな特徴の1つです。環境試料などは、加熱酸分解によって溶液化して、その分解液を導入するのが一般的ですが、水銀はイオン化ポテンシャルが比較的高い元素のために、溶液化したサンプルをそのまま導入してもプラズマ内でのイオン化率がその他の金属元素に比べて低くなります。つまり分析感度が悪くなり、様々な環境試料中の水銀同位体分析には使えなくなってしまいます。本研究課題では、そうした問題を補うために、水銀の定量分析で用いられる還元気化装置の改良を行い、試料導入系として接続しました。還元気化装置は、その名の通り、化学還元反応を利用して金属元素を気化する装置です。水銀の場合は、溶液中の水銀に塩化スズ溶液を混合すると、スズイオンの還元作用により酸化状水銀(Hg2+)が原子状水銀(Hg0)に還元されて気化されます。本研究で開発した分析技術では、この化学反応を連続的に還元気化装置内で起こし、ガス状水銀を発生させます。そして、発生したガス状水銀を連続的にプラズマに導入しているアルゴンガスに混入させて、ガス状物質だけを連続的にプラズマに導入するようにしました。そうすることによって、シグナルのバックグラウンドの低減化と感度の向上、そして安定したシグナルを連続的に得ることができるようになり、高感度化と高精度化を実現しました。

 また還元気化装置によって、分析前処理方法の簡略化と、分析方法の簡易化も同時に実現することができました。一般的に、多重検出器型誘導結合プラズマ質量分析装置を用いた金属元素の同位体分析では、前処理時にイオン交換樹脂を用いて、分析対象元素以外で、シグナルの妨害と成り得る元素の除去を行います。例えば、水銀同位体計測の場合では、質量数が204の同位体には水銀と鉛が存在します。そのため還元気化装置を使用しない方法で、質量数が204の水銀同位体を計測したい場合には、サンプル中に存在する質量数が204の鉛の同位体を取り除く必要があります。分析化学では、こうしたイオン交換樹脂を用いた分析前処理は日常茶飯事ですが、効率が悪く、高度な技能と経験が必要になります。その一方、還元気化装置内でスズイオンによって気化されるのは水銀イオンだけであるために、還元気化装置内で水銀と鉛との分離が行われ、煩雑なイオン交換樹脂を用いた分析前処理を省略し、四重極型誘導結合プラズマ質量分析装置を用いた無機元素の定量分析を経験したことがある人なら誰でも実施可能な分析技術になりました。

 現在、魚介類に蓄積している水銀が、どのような経路で蓄積したのかを明らかにするために、総水銀定量分析、化学形態別水銀分析、そして水銀同位体比計測を用いて研究を行っているところです。自然界に水銀は遍在しています。特に、一部の魚介類は湿潤重量で0.5mg/kg以上の水銀が濃縮されており、厚生労働省が平成17年に公表した「妊婦への魚介類の摂食と水銀に関する注意事項」に関するパンフレットのように、魚介類摂取による水銀の健康影響が無視できない場合もあります。しかしながら、我々人間にとって魚介類は良質なタンパク源であるために欠かせない食材です。今後の安心・安全な社会を形成するために、こうした計測技術を用いて実態把握を行っていきたいと思っています。

(たけうち あきのり、環境計測研究センター 同位体・無機計測研究室)

執筆者プロフィール

武内章記の顔写真

分析精度管理の一貫で、時々自分の髪の毛の水銀濃度を測定しています。始めた頃は自分の髪の毛の水銀濃度が日本人の平均値(約2mg/kg)の2倍ぐらいありましたが、特に何もしていないのに、最近は平均値ぐらいに減りました。なぜそんなに濃度が高かったのか分かれば良いのですけどね。