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2015年2月28日

闇夜のホタル

特集 化学で読み解く環境動態

柴田 康行

海の夕焼けの写真
観測船から見た日本海の夕焼け。きれいに見える日本海も、科学を駆使することで、その奥深くに忍び寄る温暖化の影響を浮かび上がらせることができます。(関連記事はこちら

 昭和の初期に活躍した作家梶井基次郎の作品に「闇の絵巻」という短編があります。山間の療養地で暮らす間に闇を愛するようになった主人公の体験が、簡潔な文章でまとめられています。深い闇に包まれた夜道を歩く主人公が、人家の前の明るみに突如自分の前をいく人影が現れ、また闇に消えていく様を目撃して、人生になぞらえて感動するシーンなど、共感を覚える箇所も多くて好きな作品です。

 その冒頭に、一寸先も見えない闇を、一本の棒を突き出し前方を探りながら駆け抜ける怪盗の話がでてきます。主人公が爽快な戦慄を禁じ得なかったというこの話、暗闇を未知の世界に置き換えれば、研究者の姿に重なるところがあるかもしれません。我々が普段行っている環境研究も、これまで積み重ねられてきた学問や知識の光に照らされた明るいところの淵にたって、その先の闇を調べながら進むべき道を探り、続く人たちのために道しるべの灯(ともしび)をたてる作業に例えられるでしょう。手さぐりではゆっくりとしか進めない真っ暗闇でも、長い棒が手元にあれば先の方まで様子を探ることができます。強力なライトがあれば、さらに先まで探索の手を伸ばせることでしょう。そうした探索のための道具作りが、環境計測の重要な課題となっています。

 環境計測研究センターでは、見逃しのない環境計測体系の構築をめざして、網羅分析、トレーサー分析、遠隔計測の3つのキーワードのもとに、様々な環境研究で活用するための新しい計測手法の開発を目指した先導研究プログラム「先端環境計測プログラム」を進めています。たとえて言えば、国立環境研究所ニュース32巻2号でご紹介した網羅分析は周囲をまんべんなく照らす照明に、遠隔計測は遠くまで照らすサーチライトに、それぞれなぞらえることができるでしょう。一方、トレーサー分析は暗闇の中で流れに沿って飛ぶホタルの光の動きを見て、川の存在や流れる経路を知るような作業に例えられるかもしれません。環境や生態系の状態、あるいは物質の動きなど特定の課題について、これさえ測れば知りたい情報が得られる、という特徴的な指標、目印を見つけ、それを系統だてて利用していく方法論を構築することがプロジェクト2「新しい環境トレーサーを用いた環境動態解析法の開発と計測」の主要な目標となっています。

 ここでは、揮発性の高いVOCと呼ばれる化学物質、ならびに元素の同位体情報を使って、地球規模の環境問題の中でも取り組み優先度の高い地球温暖化(気候変動)に関わる新たなトレーサーの開発、ならびに2013年に国際条約(水俣条約)が成立した水銀の環境動態追跡のためのトレーサーの開発を進めています。温暖化の進行に伴い、広域的あるいは地球規模の海水循環や生態系、炭素循環の変化などが懸念されており、その変化をいち早く、正確にとらえるために、人や生物が作る化学物質、あるいは同位体の中から利用可能なトレーサーの探索が進められました。海水循環については、これまで利用されてきたトリチウム(半減期12.3年)や放射性炭素14C(半減期5,730年:大気圏核実験の影響で過去数十年に大きく変動)などの放射性核種に加え、製造量の年変化の異なる複数の代替フロンの組み合わせでさらに細かい変化を明らかにすることができました。また、生物起源のVOCである硫化カルボニルやハロゲン化メチル等の物質が生態系の活動度のよい指標となり、長周期の気候変動とも関連がありそうなことなども明らかになってきています。一方、14Cを利用した陸域、海洋の炭素循環速度とその変化に関する研究、水銀同位体を活用した環境動態研究なども推進されて情報が蓄積されてきています。本号では、トレーサーを活用した日本海の海水循環の変化、並びに水銀同位体比精密分析技術の進展について詳しくご紹介し、あわせて14Cを使った環境研究の原理と概要をご説明します。

 環境トレーサーの開発には、対象となる現象に関する深い理解と、長期あるいは広域にわたる探索的、継続的なモニタリングの実施が欠かせません。闇夜を突っ走るための棒を手に入れ使いこなすには、長い準備期間が必要です。今回ご紹介する成果の背景にはそうした長い蓄積があることを、あわせて読み取っていただければと思います。

(しばた やすゆき、環境計測研究センター 上級主席研究員)

執筆者プロフィール

さまざまな環境試料、とりわけ生物試料(動植物プランクトンからサンゴやトンボ、希少鳥類まで)や人生体試料中の有害元素、有機汚染物質、放射性同位体などいろいろ測ってきました。環境という巨象をあちこち撫でる機会に恵まれましたが、その姿をなかなかうまく捉えられずにいます。