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安定同位体比によりはじめて分かる湖沼や河川の姿

【研究ノート】

高津 文人

 湖沼や河川に代表される淡水資源は飲料水や灌漑用水として利用する上で必要不可欠なものです。その淡水資源の量と質は,我々の水利用のやり方ひとつで大きく変わってしまいます。しかしながら,流域には多くの人が暮らし,小さな河川や用排水路,はたまた地下水といった多様な水脈をつたって,各種排水が湖沼やより大きな河川へと流れ込みます。また,灌漑用水のシステムは高度化し複雑になり,ダム湖や天然湖沼の水を上流にポンプアップし,再利用するといった人為的な水の流れの操作が行われています。こうした複雑な水系の水質がこれ以上悪くならないようにすることが求められています。

 水は流域の上流からさまざまな物質を取り込みながら,大きな河川へと流れ込むことから人間の血流にもたとえられ,河川や湖沼の水質の変化をモニターすることでの水系の健康診断ができないかという考えがあります。しかしながら,現在モニターされている水質項目の多くは有機物の総量と関連するものが多く,重金属や毒性の強い物質を除いては,全体の汚濁量をモニターする意味合いが強いと考えられます。人間の健康診断でも体重,身長といった指標以外に,コレステロール値や肝機能の指標などそれぞれが独立した意味をもった診断項目があります。水系の健康診断を考える場合,例えば,同位体比からは物質の起源や生成・消費プロセスを知ることができ,生態系内の重要な物質の同位体比は流域の優れた個別指標になると考えられます。

 同位体とは質量数以外の物理化学的特性が同じ核種(質量数の異なる同じ元素)のことを指しますが,この質量の違いは元素の反応や移動速度の違いを引き起こし,結果として地球上のさまざまな物質ごとに同位体組成の異なる現象をもたらしています。同位体組成は物質のつくられた経緯(反応経路や起源となる物質)やその物質が別の物質へと変えられるプロセスをあらわすことから,同じ種類の物質の同位体比が大きく変化した場合には,その物質をとりまく物質代謝の仕組みが変化していることを示しています。

 従来の全窒素や全有機物といった総量が変化しない場合でも,その同位体比が変化した場合には,中身が入れ替わっていることを意味します。また,ある物質の濃度が下がった場合には,単純にきれいな水で薄まった場合と,分解もしくは生物などによって吸収された場合があります。後者の場合には同位体分別とよばれる重い同位体と軽い同位体とで反応速度が異なることによる同位体効果が生まれることから両者を区別することができます(図1)。

図1 硝酸イオン(NO3-)濃度と窒素同位体比の関係
 濃度の同位体比の変動をもたらした原因が同位体分別を伴う反応であったのか,異なる同位体比をもった水との混合によるのかを判別することができます。図中では,初期値の濃度100μM,同位体比2‰とし,混合の場合は濃度20μM,同位体比8‰の別の水との混合を想定し,同位体分別を伴う反応の場合は,同位体分別係数を1.02とした。

 生物の生命維持のために必要な元素のうち,安定同位体をもつものには水素(2H, 1H),炭素(13C, 12C),窒素(15N, 14N),酸素(18O, 16O),硫黄(34S, 32S)などがあります。それぞれの元素の同位体組成はその元素を含む物質の地球上での循環の結果を反映しており,水素や酸素の同位体比は主として水循環の研究に用いられています。また,炭素は二酸化炭素や有機物など生物の代謝や餌資源の解析に,硫黄の同位体比は大気降下物の由来や酸化還元環境の解析に使われてきました。窒素の同位体比は食物網の解析の他に,後述するように,流域への窒素負荷源や脱窒(硝酸イオン(NO3-)が亜酸化窒素を経て窒素ガスへと還元される反応)など環境浄化機能の解析に使われています。

 わたしが解析している同位体組成は,炭素の安定同位体比(13Cと12Cの存在比)と窒素の安定同位体比(15Nと14Nの存在比)と酸素の安定同位体比(18Oと16Oの存在比)になります。生活排水や畜産排水が流入するようになると,水系の窒素同位体比が上昇することが経験的に知られています。一方,雨水や雪解け水が直接流入することでNO3-の酸素同位体比が上昇することが分かっています。現在の解析対象としては霞ヶ浦の底泥有機物と霞ヶ浦流域の多様な水系のNO3-です。霞ヶ浦は広い集水域(面積2,200km2)を有しており,そこに100万人以上が暮らしています。その霞ヶ浦の底泥表層の窒素安定同位体比がこの30年間で2‰(パーミル:千分の一を表す単位)程度上昇したことがわかりました(図2)。このことから,1)湖内での脱窒活性が上がったか,2)霞ケ浦へ流入する窒素の内訳が変化し,畜産由来のし尿や下水処理水由来の窒素の流入が増えたか,3)底泥表層での有機物分解が促進されたか,のいずれかであると推察されました。従来指標の全窒素量(TN)は近年横ばいであることから,窒素流入量の増大を引き起こすケース2)が主たる原因とは考えにくく,底泥での脱窒活性もしくは有機物分解活性が近年増加しつつあると考えられます。一方,霞ヶ浦の底泥表層の炭素の安定同位体比は1990年代の10年間で1‰程度低下し,その後上昇しています(図2)。炭素の安定同位体比は湖内での生産と分解のバランスの指標となり,低下すると分解の卓越した状態となっていることを意味しています。このことから,霞ケ浦は1990年代には植物プランクトンによる光合成生産が鈍り,分解の卓越した状況に陥ったがその後回復しつつあることがわかりました。こうした底泥の窒素と炭素の同位体比の結果から,1990年代に霞ケ浦の湖内での有機物分解もしくは脱窒活性が上昇した可能性が高く,霞ケ浦の浄化機能の柔軟性がうかがえます。

図2 霞ヶ浦湖心の底泥の表層0~2cmの窒素同位体比と炭素同位体比の過去30年間の歴史的変遷
窒素同位体比は30年間で1.5‰程度上昇し,炭素同位体比は0.8‰程度低下しました。

 底泥の他にも流域からの物質流入を検出するすぐれた指標となりえるものとしてNO3-の窒素と酸素の同位体比の変化をみる方法があります。有機物中の窒素は分解され,好気的な環境ではその多くはNO3-となって流下します。そのNO3-の窒素同位体比は先ほど底泥でも述べた畜産由来のし尿や下水処理水が流入すると高くなる一方,酸素同位体比は雨水由来のNO3-の流入を検出することに利用できます。図3には主たる窒素負荷源から流出するNO3-の同位体特性を示しています。現在解析中の霞ヶ浦流域を含む多様な水系のNO3-の同位体分析の結果からは,窒素同位体比の高いNO3-の水として,堆肥を含む畜産由来や下水処理水由来と考えられるものと,農業用水として水田に汲みあげられる霞ヶ浦用水の二つの負荷源のあることが分かってきました。両者はNO3-の濃度が全く異なることから,NO3-の濃度と窒素安定同位体比の組み合わせにより,流域の窒素循環の仕組みを解析する新しい手法を確立できると考えています。

図3 主たる窒素負荷源から流出するNO3-の濃度と同位体比の特性の概念図
農業排水は施与される肥料の種類が化学肥料か堆肥かでその特性は大きく異なると予想される。前者の場合は化学肥料の特徴に近く,後者の場合は畜産排水に近くなる。負荷されたのちに脱窒の起こる場合は硝酸イオンの濃度と同位体組成を大きく変化させる。

 しかしながら,この新しい同位体解析手法を多様な環境,物質に応用する際には,まだまだ知られていない同位体比に影響する因子のあることが同時に分かってきました。たとえば,霞ケ浦の底泥では,堆積過程での同位体比の変動はそれほど大きくないと考えられていましたが,実際は底泥の表層から深層への酸化・還元環境の大きな違いを反映して,窒素同位体比の変化することがごく最近明らかとなりました。底泥中の有機物は分解される一方ではなく,底泥中に生息し増殖している細菌によって再び有機物へと変えられるプロセスがありますが,そうしたプロセスが堆積後の窒素安定同位体比の変化として現われていることが分かってきました。

(こうず あやと,水土壌圏環境研究領域 湖沼環境研究室)

執筆者プロフィール

高津文人氏の写真

 菌類の同位体組成からその生態を解析した研究で博士号を取得し,モンゴル草原や河川,湖沼での食物網構造の解析を行ってきました。現在は無機物,有機物,溶存態,懸濁態のあらゆる物質の同位体分析から流域の物質動態の解析を行いたいと考えています。