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考えることを遠ざけさせるもの

【巻頭言】

参与 大垣 眞一郎

 私は都市環境工学と水環境学を専門としています。所属する大学院の専攻では,排水の再利用の政策と技術についての講義を担当しています。排水を再利用する目的は何か,合理性はあるか,どのようなリスクを考えなければならないか,再利用に当たってどのような障害があるか,それを克服する技術的手段は何か,などです。

 講義の中の重要な項目のひとつに,水中に存在する病原微生物(原虫,細菌,ウイルスなど)のリスクの評価と基準策定の考え方に関する項目があります。下水の場合,人間の排泄物が高濃度に含まれますから,病原微生物のリスクの除去は最も重要な課題のひとつです。排水の農業用水への再利用基準について,WHO(世界保健機関)の基準設定の歴史的展開を説明したよい論文(Hillel Shuval, Water Science and Technology, Vol.23, pp.2073-2080, 1991)があり,教材のひとつとして利用しています。その中に,研究における「いましめ」に関する言葉が引用されています。“Standards are devices to keep the lazy mind from thinking.”(米国の疫学者で衛生工学者であるWilliam Thompson Sedgwick(1855-1921)の言葉)。「基準というものは,考えるという行為を遠ざけさせてしまう(格好の)道具である。」とでも訳しましょうか。

 著者であるShuval教授は,論文の中で,当時の米国カリフォルニア州の農業用水への排水再利用基準が世界で広く参照されていることに対し,この言葉を使いながら,経済的開発途上国の実情に合わないのに,深く考えもせず,WHOの基準にカルフォルニアの既存の基準を援用するのは不適当であるという論陣を張っているわけです。ここはその論議の当否を説明する場ではありませんので別の機会に譲りますが,たいへん面白い論文です。

 さて一般に,ひとたび「基準」というものが確立すると,その基準が一定の権威を持つようになります。専門家でさえ,その項目や数値を,さらに深く「考えることなく」,議論や考察の前提にしてしまうことはよくあることです。「研究」とは,研ぎ磨き,究める,ということです。正確で十分な科学的知見を蓄積し,ものごとを深く解析し,本質を明らかにすることです。Sedgwickの言葉は,研究の場でこのような状況になることを避けなければならないと警告を発しているわけです。この“standards”(基準)は,他の言葉に置き換えることもできます。すなわち,「指針」,「ガイドライン」,「マニュアル」,「教科書」,「常識」,「時代の空気」,あるいは,組織内では「永年の慣習」などです。

 地球規模の気候変動の課題のように,いま,環境の課題は,個別の国と世界のあらゆる政策の要となってきています。環境に関するさまざまな「基準」は,国家なり世界が,共同体として政策を実行していく上でなくてはならない手段です。しかし,知識と社会のさまざまな価値観は,時代とともに大きく変化していきます。環境に関わるさまざまな「基準」も不変ではありえません。また,「基準」も世界化が急速に進行しています。「基準」を常に考え直し,社会に提案する集団の存在が重要になります。環境を研究するところ(所)が,より広く知見を蓄積し,ますます深く考えなければならない時代です。

(おおがき しんいちろう)

執筆者プロフィール

参与 大垣 眞一郎氏

 2008年4月より参与に就任いたしました。大学の本務のほか,日本学術会議の活動にも参加しております。人文社会科学,生命科学,医学,理工学などすべての学術分野の関係者との仕事は,我が知識の狭さと浅さを思い知らされる日々です。環境研究の広さと深さを改めて学びたいと考えております。