流域生態系のモデル化によるシミュレーション〜釧路湿原生態系の回復可能性評価〜
研究ノート
中山 忠暢
北海道釧路湿原は,ラムサール条約への登録,国立公園や天然記念物への指定にもかかわらず,周辺域での森林伐採及びそれに伴う農地・宅地開発,排水能力の向上のための河道の直線化等によって,土砂・栄養分が大量に流入してきた。その結果として,湿原植生はヨシ・スゲ群落からハンノキ林へと急激に変化するとともに乾燥化が急速に進行し,湿原面積はこの50年間で2割以上も減少した(図1)。このような状況に対して,2002年度より国土交通省・農林水産省・環境省が主体となって,土砂流入の河畔林等での抑制及び直線化した河道の旧流路への再蛇行化等による地下水涵養量及び湿原植生の回復を目的とした「釧路湿原における自然再生事業」が開始された。河道の再蛇行化によって地下水位は上昇し,水の滞留時間の増大による洪水遅延・下流への洪水被害の軽減,土砂捕そくによる水質浄化が促進されると考えられているが,自然再生事業における観測結果を用いて評価を行うための理論的解析手法や総合的アプローチという観点からは必ずしも十分なものとは言い難い。特に,湿原内における河川流量・土砂流入量等に関する調査はこれまでにも様々な研究機関で行われてきているが,湿原内での植生・地下水位・土壌水分量・河川流量・熱・土砂・栄養塩等の関係について総合的に解析及びシミュレーションされた例は現状ではほとんどないと言える。
湿原における地下水位は非常に浅く(ほぼ飽和状態),ヨシ・スゲ群落に見られる低層湿原やミズゴケ群落に見られる高層湿原等が存在し,保水・浄化機能や遊水地としての洪水調節機能,多様で貴重な野生動植物の生息・生育空間としての機能,特有の景観資源・観光資源としての機能等を形成する。このような湿原域では河川水・土壌水分量・地下水及び植生間での水・熱・物質の相互作用が頻繁に生じており,著者の所属する流域圏環境管理研究プロジェクトではこれまでに北海道の釧路湿原を含む釧路川全流域を対象として気象ステーション,地下水位,及び河川水位の大規模現地観測を行ってきた。本研究課題は,植生分布を考慮した水・熱・物質収支モデルシミュレーションの実施によって湿原内の水・熱・土砂・栄養塩分布構造の変化を定量的に明らかにするものである。並行して,本研究課題では上記の河道の再蛇行化事業によって短期的及び長期的な時間スケールでの湿原生態系が回復されるのか,について,様々なシナリオに基づくモデルシミュレーションを用いてその効果の検討及び影響評価を行うとともに,湿原生態系の形成・保全・回復に必要な環境条件(水・熱・土砂・栄養塩と湿原植生との関係)を提示するという意義を持つ。
使用したモデルは流域プロジェクトでこれまでに開発してきた陸域統合型NICE(NIES Integrated Catchment-based Eco-hydrology)モデルである。NICEモデルは,MODIS(Moderate Resolution Imaging Spectroradiometer)衛星データから得られるLAI(Leaf Area Index)やFPAR(Fraction of Photosynthetically Active Radiation)等の高次プロダクトと同化することによって植生の季節変化・増殖を考慮し,かつ,河川水・土壌水分・地下水及び植生間での相互作用を考慮した3次元グリッド型の水・熱・物質収支モデルである。NICEモデルを用いた本計算にあたって,事前に,流域プロジェクトで観測した現地観測ネットワークデータを用いて計算結果の検証(バリデーション)を行い,モデルの湿原域への適用可能性・有効性を確認した。また,対象領域では,年間を通して一般的に4~5月の融雪出水と9~10月の台風出水という2つの大きな出水がある。特に,融雪出水は夏期の降雨-流出特性とは大きく異なり,積雪層及び土層の凍結・融解作用に伴って流出に大きな時間(位相)遅れを伴う。そのため,ピーク流量の大きさのみならず継続時間の長さという観点から,治水・利水対策や流域生態系へ大きな影響を及ぼし,寒冷地において無視できないものである。従来の経験式に基づく概念モデルには対象領域ごとのパラメータ依存性が大きい・最適パラメータ値の選定方法のための特殊技能の必要性や選定根拠の不明確さ等の欠点があるため,本研究課題では純粋に物理ベースに基づき,太陽入射角度や斜面角度を考慮した熱収支モデル,積雪層及び凍結・融解層を含む多層斜面流モデルへの拡張を行い,寒冷地の湿原域に適用可能なモデルの開発を行った。また,融雪出水に伴う流域からの土砂流出が湿原の乾燥化に大きく影響しており,今後,土砂移動及び堆積を考慮した長期シミュレーションの必要性が再認識された。さらに,本研究課題においてこれまでに得られた大きな成果の1つとして,湿原が良好に保たれていた過去からハンノキ林へと急激に変化した現在までの再現シミュレーションを行うことによって湿原域へのハンノキ林の侵入に伴う土壌水分量の減少及び地下水位の低下を再現し,これまで定性的に指摘されてきた湿原域での乾燥化を定量的に明らかにした(図2)。この結果は,ハンノキ林の侵入に伴う蒸散量の増大・周辺域からの流出土砂の捕そく率の増加等を裏付けている。
現在,GISデータ,衛星データ,現地観測データと統合したNICEモデルを用いて,1)河道の再蛇行化を行った場合のモデルシミュレーションの実施,2)再蛇行化前後での短期的な時間スケールでの湿原生態系の変化の予測,3)湿原生態系が回復しうるような環境が形成されるかの評価,4)主成分分析や因子分析等の多変量解析手法を用いた湿原生態系の形成・保全・回復に必要な環境条件(水・熱・土砂・栄養塩と湿原植生との関係)の類型化,を行うことによって再蛇行化事業が短期的な時間スケールでの湿原生態系の回復手段となるかどうかについて検討を行っている(図3)。河道の再蛇行化が短期的な時間スケールでの湿原生態系の回復のために有効であることが確認されたなら,将来的には長期的な時間スケールでの湿原生態系に及ぼす影響について検討する予定である。具体的には,流域土地開発によって生産された土砂による汚濁負荷が,河道の再蛇行化に伴って湿原域にどのように堆積するか,及びそれに伴って湿原植生がどのように変化するか,をモデルシミュレーションにより予測する。また手法のさらなる展開としては,流域で生産された窒素・リン等の栄養塩が湿原植生に及ぼす影響評価及びその対策提言についての貢献等が考えられる。
本研究課題は,従来の研究・プロジェクトに見られるような生物の生息・生育環境に与える影響の回避・低減,あるいは局所的な環境の修復・復元にとどまるのではなく,流域からの物質流入システムや河川の攪乱と更新システムに関するグローバルな流域システムの再生が可能かどうかについて,持続可能な生態系の形成・保全・回復に必要な環境条件の提示とモデルシミュレーションを融合させることによって評価・予測を行おうとするものである。さらに,自然条件だけでなく人文条件もGISデータとして取り込むことにより,生物や人間等と共存した持続可能な生態系のあり方について議論可能になる。また,従来は考慮されてこなかった植生が逆に環境変化へ及ぼすフィードバック効果についても研究を行う必要がある。しかしながら,長期的もしくは短期的な時間スケールでの周辺環境の変化に伴う水・熱・物質収支変化を総合的に考慮した流域システム内部での植生の自然増殖・消滅プロセスについてはいまだ世界中でほとんど行われておらず,環境条件の変化に伴う湿原生態系の形成・保全・回復に必要な環境条件の類型化手法の確立とともに,植生本来の群集プロセスを付加することが流域生態系の評価及び将来予測には不可欠である。さらに,本研究課題では生態学や地形学等に関する研究者との共同研究によって,環境の変化に順応した植生の増殖モデルの構築を行うとともに,グローバル輸送モデルと局所的な乱流モデルとの結合及びモデルの集中化によって,スケールアップ・スケールダウン相互からの流域生態系の現象解明を行うための手法の確立を行う予定である。
執筆者プロフィール:
2000年入所。入所以前は乱流モデル・PIVやPTV等の画像解析・レーザ流速計等を使用して開水路流及び2層流の乱流現象の解明を行ってきた。現在は流域における生態系システムに非常に興味を持っており,プロジェクトにおいて中国長江・黄河流域,及び関東利根川流域のモデル化を担当している。