ユーザー別ナビ |
  • 一般の方
  • 研究関係者の方
  • 環境問題に関心のある方

大陸縁辺部における生態学的過程の解析 栄養塩の挙動と生態系の応答について

研究ノート

Mary-Helene NOEL

 現在筆者が参加している日中共同プロジェクトには,中国側からは国家海洋局,日本からは環境庁と国立環境研究所が参画しており,その目的は,長江河川水の流出に伴い汚染物質が東シナ海生態系にいかなる影響を及ぼすのか,また汚染物質に対する環境容量の評価を確立することにある。本プロジェクトおける筆者の主要な目的は,栄養塩の分布・挙動を評価することにある。このことは,東シナ海長江河口域における環境の質(富栄養か貧栄養か),資源量(一次生産量,水産資源量)に知見を与えると考えられる。その中で筆者は以下の二つの理由により,リンに着目した;

 第一にこれまでの研究により,東シナ海において発生した赤潮は,主にリンにより制御されていると言われている。

 第二にリンの挙動は,鉄,銅,亜鉛,マンガン,鉛,ヒ素といった,水・堆積物間で移動可能な他の汚染物質と密接な関係がある。従ってリンの移動,負荷量,運命を理解することで,上記の汚染物質の移動量も推定することが可能となると考えられる。

 海洋生態系におけるリンの循環は,水塊部に加えて海底部におけるプロセスが占める割合が大きい。東シナ海長江河口域は,長江の流出による影響を強く受ける環境である。またこの海域は季節により,黄海沿岸の海流や台湾からの暖流の影響も多かれ少なかれ受けている。長江からの流出は現在のところ,季節変動は大きいが年ごとの差はそれほどみられない。しかしながら近い将来,三峡ダムの建設により劇的な変化がもたらされる可能性がある。海洋生態系全体における栄養塩の吸収と排出源としての堆積物の状態は,生物学的な環と物理化学的なプロセスにより支配されている。水理的条件,酸化反応,水中の栄養塩濃度,生物活性の変化が,水・堆積物境界面における汚染物質の移動に影響を及ぼすと考えられる。したがって堆積物と堆積物上部に存在する水との相互作用や,その季節変動の影響を調べる必要がある。以上の目的のために,1997年10月と1998年5月の二回に渡る航海で,長江河口域において海水と堆積物の柱状試料を採取し,秋季と春季の状態を実験的に再現させた。実験室内に持ち帰った堆積物から成分抽出を行い,懸濁態無機・有機リンの堆積物中含有量を測定した。幾つかの堆積物試料については,調査した現場と同じ還元状態を保つことができる特殊な装置(図1)を用いて,その間隙水を調査船上で採取し,溶存態の栄養塩濃度を自動分析器により測定した。

採取の様子の写真
図1堆積物間隙水採取の様子

 調査海域の堆積物表層部における無機リンの濃度は12~16μmol/gで,富栄養状態にあるとされる海域(米国ロングアイランド島,瀬戸内海,中国南部の厦門湾)と同等の濃度であった。有機リン濃度は無機リンに比べて,場所・季節的に大きな変化がみられた(0.6~3.3μmol/g)。同じ地点における春季の有機リン濃度は秋季に比べて2~3倍高く,これは新たに懸濁態の有機物が堆積したことによるものと考えられる。以上の結果は堆積物中に,リンの形態(有機/無機リン)と貯蔵量の季節変化が克明に刻まれていることを示している。

 堆積物の粒径や物性の違いによるリンの吸着量の差異を補正できるように,懸濁態リンとアルミニウ ムの濃度比を求め,以下の考察に用いた。水深20~30mの浅い地点にかけては無機リンの分布はほぼ均一であったが,水深50mの地点ではより多量のリンの蓄積がみられた。海底部の地形と水理的な条件により,偏った無機リンの堆積が生じるようである。長江からの一年間の流出量のうち70%が春から夏にかけて集中しており,堆積物表層部における無機リンの蓄積量はこのことを反映している。以上のような堆積物中のリン濃度の変化は,長江からの流出の比較的素早く起こる季節変動を示している。

 堆積物中に貯蔵される全リンのうち,一部のみが植物プランクトンの生育に利用されうる。一次生産と生態系に影響を及ぼすリンの量を推定するには,堆積物中の全リン量と生物に利用可能なリンの量を区別することが必要である。以上より堆積物から水塊部に移行可能なリン量を評価するために,堆積物試料から逐次抽出を行った。こうして得られたリンの量(有機態のものも含む)は,植物プランクトンが直接取り込み可能なリン量の占める割合の推定に役立つと考えられる。例えば北から南方向へのリンの減少濃度勾配から,生物が利用可能なリンの量を計算すれば,堆積物へのリンの流入量とリンの堆積・吸着量の差が明らかとなる。幾つかの調査点は他に比べて,植物プランクトンの生育にとってより好ましいと思われた。

 堆積物の間隙水中の溶存態リン濃度は水塊部に比べて高く,その濃度比は場所と堆積物層によって1.4~65倍であり,最高濃度は13μmol/Lであった(図2)。調査中に海洋メゾコズム(海洋生態系を模擬する,直径3.5m,深さ5mのバッグで現場の海水を隔離したもの)中で,植物プランクトンの大発生を実験的に発生させたときの添加リン濃度は,1.5~3μmol/Lであった。以上の結果から,堆積物から水塊部へのリンの放出により,植物プランクトンの大発生を生じさせうると考えられる。ただしこの一連のプロセスは,底部からのリンの放出が盛んに生じる場合のみ起こるのであろう。

リンの濃度分布の図
図2 東シナ海長江河口域におけるリンの濃度分布(1998年6月)

 海底部の再懸濁により供給される栄養塩溶出量を推定するために,調査船上で一連の実験を行った。堆積物表層部を採取した後,ただちに表層水,深層水,堆積物直上部の海水それぞれと撹拌・混合させた。その結果秋季の泥状堆積物からのリンの溶出は,物理的な作用のみによって起きていると考えられた。堆積物と水塊部中のリン濃度は一定の平衡状態に達する。間隙水に対する水塊部の溶存態無機リン濃度比は0.85以上であった。この比は調査を行った海域・季節での予測をたてるためのモデルに適用可能であると考えられる。

 一方春季では砂泥状堆積物を用いて同様の検討を行った結果,水・堆積物間のリンのやり取りに生物的な作用が大きくかかわっていると考えられた。以上の結果より,堆積物上部に存在している海水の性状の変化に対して,堆積物が急速かつ可逆的な応答を示していることがわかった。したがってこれらの一連の実験の結果から,水・堆積物間のリン移動量の全体の収支を推定することは困難である。しかし少なくとも堆積物の再懸濁実験により,堆積物から水塊部へのリンの移動については明らかとなった。堆積物はリンの貯蔵物としてだけでなく,供給源となっている点に留意すべきである。

 堆積物柱状試料採取の際に,深く形状のはっきりと掘られたゴカイ類の巣穴が見付かった。その巣穴の鉛直面に無酸素帯の始まりを示す層がはっきりと認められ,間隙水を通じてリンの移動が起こっている深さは少なくとも表面から6~10cmと推定された。こうした値は堆積物からのリン放出量の計算モデル構築に役立つと考えられる。

 結論として,以上述べてきた一連の予備的な調査結果から,堆積物と水塊部におけるリンの分布は,絶えず動的な状態にあるようである。水・堆積物間のリン移動の機構は堆積物の性状や季節により異なる。堆積物は栄養塩の貯蔵場とも供給源ともなりうる。したがってリンと挙動を共にする他の汚染物質も水塊部に放出されうると考えられる。

 東シナ海長江河口域は不均一な性状の堆積物と水理的環境にあるので,季節変化・長江からの流出などについて,あらゆる場合について調査されなければならない。上記の堆積物の再懸濁実験に加え,調査海域現場における海底チャンバー実験により水・堆積物界面における栄養塩移動量の把握することで,水塊部の性状の変化による堆積物からの栄養塩放出量を見積もるためのよいデータが得られると考えられる。

(ノエル,水土壌圏環境部,EU-STF フェロー,フランス)
(訳 水土壌圏環境部・牧秀明)

執筆者プロフィール:

96年パリ大学第XII番校にて学位取得,Ph.D,96~98年STA フェロー,98年~現在EU-STF フェロー