バイカル湖の湖底泥を用いる長期環境変動の解析に関する国際共同研究
研究プロジェクトの紹介
河合 崇欣
1995年度に開始された標記総合研究では,バイカル湖の湖底堆積層から,深さ方向に1kmの柱状試料を採取して,この地域の数百万年程度の長期気候変動及びその間の生物相変化の一部を再現する。これによって,今までは極地方の氷床や海洋底堆積層に限られてきた,長期地球環境変動に関する情報に,流域の生物情報も豊富に含んだ内陸部のデータが加えられる。また,固有生物種の遺伝子(系統・進化)解析の結果と合わせ,長期にわたる環境変動の生物(種)への影響を推測できるものと期待している。これは,長期的な生態系保全・環境計画を進める上で最も重要な基本課題の一つである。
バイカル湖は,ユーラシア大陸のアジア側,中央シベリアの南東部,モンゴルとの国境に近いタイガ(寒帯針葉樹林)の中にある。数十万年位の時間で見ると,この地域は地球上で最も典型的な内陸性気候を示し,1年の夏と冬,温暖期(間氷期)と寒冷期(氷河期)の温度差が最も大きい。また,モンゴルのステップ(乾燥草原)とタイガの境界線が何度も南北に移動し,幾度も乾燥化がもたらされた。この,寒冷化や乾燥化という重要な環境因子の大きな変動によって植生の大きな変化が生じたであろう。
バイカル湖は3000万年の歴史をもつ世界最古の湖である。近年,アジアモンスーンとヒマラヤ山脈形成との関連についての議論が起こっており,バイカル湖形成のころを境にアジア地域の気候が大きく変化してきた可能性があると指摘された。ヒマラヤ山脈の高さが数千メートルに達し,アジアモンスーンに影響を与えるようになったのは約1000万年前と言われ,アジア地域の気候が大きく変わったとすれば,バイカル湖の古い歴史の中にはこれらの変化の過程が克明に記録されているであろう。
バイカル湖は長い間にその形を変えてきたが,生物学的な系としてはかなり安定した孤立系として維持されてきた。そのため,バイカル湖の水系では生物相の交流が長期にわたって強く抑制され,独自の進化・分化を経て千数百種に上る固有種を擁するに至ったと考えられる。しかし,隆起による地形の変化で,数十万年前に流出河川がレナ川からエニセイ川に変わったことは,比較的新しい大事件で,その後起こった生物種内の変化も知られ始めた。
微化石や有機化合物(脂肪酸,アルカン,色素,DNAの破片など)の形で湖底堆積層の中に残されている生物学的な情報の解析も大幅に可能性を広げている。例えば炭化水素の長さや形からもとの植物が陸生か水性かの判断ができるし,草本か木本かも分かる。色素やDNAの断片も堆積層の中に比較的安定に保存されていて分析ができる。花粉,黄金藻,ケイ藻など生物としての元の形を残していて種のレベルまで示すことができるものもある。特に,前2者については丈夫な殻に包まれ保存されているDNAから,進化の過程を追跡することも試みる。生物起源の化学成分から元の生物のグループ分けと存在量の変動の再現くらいまで可能である。これらの情報は,それらの生物相の変化自体がなぜ起こったのかを議論するための基礎情報であるばかりでなく,これまでの研究で推定された気温や降水量の変動が妥当なものであるかどうかを検討するためにも有効である。このようにバイカル湖の湖底堆積層が豊富な生物情報を含むことは,研究試料として海洋底や氷床から得た柱状試料に比べて非常に優れた点である。
以上に述べたようなこの地域の特徴ある環境変化の歴史を再現するために,以下のような作業・研究課題を総合的に推進する。
1.バイカル湖底堆積層柱状試料の採取及び現場測定
湖の全面結氷期間内に,氷の中に閉じ込めた浮体に設置した掘削機を用いて,全層でコアを回収する掘削作業を完了する。(1)掘削地点の選定,(2)掘削,(3)掘削井壁面の物理的性質及び透磁率測定・ガス成分分析,が主な内容となる。
2.柱状試料の分析と解析
(1)堆積層の年代決定法では,古地磁気・岩石磁気年代測定,14C加速器質量分析(〜5万年),10Be/26Al比加速器質量分析法(〜1千万年)に関する研究に取り組む。10Be/26Al比法は本研究のための新技術である。
(2)物理的・化学的測定及び堆積環境・湖内移流拡散に関しては,堆積物の比重,含水率,粒度分布などの物性,有機化合物・無機元素・安定同位体比測定による物質循環系の構造解明に取り組む。流域の風化や地形変化についても解析する。
(3)生物情報解析による古環境変動再現では,植生,植物化石花粉・藻類のDNA,微化石群集などに関する量と種の変動を測定し,解析を行う。
3.国際研究協力体制及びデータベース
バイカルデータベースの構築も,学際的集中化を指向した国際共同研究の重要な課題の一つである。
以上の課題に取り組むことによって,内陸部における古環境の精緻で連続的な再現を行い,気候や生物相の変化を支配する機構を明らかにする。ここでの成果を土台に将来は,環境の大きな変化が遺伝子の変化を引き起こす原因の一つであるかどうかなどについても議論できるよう研究を発展させていきたい。
筆者プロフィール:
愛知県豊橋市で高校卒業まで過ごす。名古屋大学,東京工業大学を経て1976年に国立公害研究所(当時)に入所。陸水の富栄養化,モニタリング手法,酸性雨などの研究に携わり,現在はバイカル湖における国際共同研究プロジェクトに従事。
〈趣味〉釣り,旅行