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2009年12月15日

研究最前線第14回「生物多様性を育むマングローブ林の現実」

 マングローブとは熱帯や亜熱帯の沿岸域に見られる森林生態系のことです。マングローブ林の中では、さまざまな生き物たちと出会うことができます。林床の上を色鮮やかなカニやトビハゼが動き回り、樹上を見上げればカワセミやサルなどがこちらの様子をうかがっています。潮が満ちてくると水没した林内を多種多様な魚が泳ぎ回り、足の間をすり抜けて行きます。トラやワニなどの大型生物が生息している森もあります。

 元来、沿岸域という場所は日々繰り返される潮汐変動によって土壌有機物が頻繁に海域へ流出するため、土壌中の窒素含有量が少ないという特徴があります。植物にとって窒素は「生きるために必ず必要な元素」の一つで、窒素がなければ植物は育ちません。しかし、マングローブ植物はこのような窒素の少ない場所でも旺盛な生育を見せ、広大な森林を形成します。実は、マングローブ林の中では窒素固定菌と呼ばれる微生物が大気中の窒素分子をアンモニア態の窒素へと変換しており、マングローブ植物の窒素源となっています。そして大量の葉や枝、果実などの有機物が生産され、森に住む生き物たちのエネルギー源となっています。マングローブ林から供給される有機物は近海に生息する魚介類の貴重な栄養源です。栄養が豊富で身を守る場所の多い林内では沢山の稚魚が幼少期を過ごします。そして、この森から収穫される魚介類や材木はマングローブ域に住む人びとの生活の糧となっています。

マングローブ林の変貌

表:東・東南アジアにおけるマングローブ林面積の推移

 熱帯や亜熱帯の沿岸域は世界で最も人口過密な地域の一つです。そのため、マングローブ林の多くは古くから近隣に住む人びとと密接に関わりながら共生してきました。しかしこの半世紀の間、かつての共生関係のバランスが崩れ、世界中のマングローブ林が減少の一途をたどっています(表)。その最大の要因といわれているのがエビ養殖池への転換です。現在、世界で消費されるエビの大部分は東南アジアのマングローブ域で生産されおり、無数の養殖池が海岸線ぎりぎりまでひしめき合っています。マングローブ林はわずかに残された海岸線を薄く縁取っているに過ぎません。

 国立環境研究所では2006年度からメコン川流域を対象とした環境影響評価研究を推進しています。この研究の中で緊急課題的に着目しているのが、メコンデルタのマングローブ生態系です。なぜならそれは、ほかの地域のマングローブ生態系と同じく、人びとの生活に不可欠な存在でありながら近年急激な変貌を遂げていると認識されている生態系だからです。

 メコンデルタのマングローブ林がほかのマングローブ林と異なるのは、ベトナム戦争による壊滅的な破壊を経験していることです。当時の衛星画像を解析すると、枯葉剤を散布した航空機の軌跡に沿って筋状に樹木が枯死している様子を見ることができます。ホーチミン市南部にあるカンザー地区では戦後の植林活動によって、当時とほぼ同等の森林面積にまで回復し、2000年にはユネスコ保護林として指定されました(図)。しかし、このように保護区として伐採が禁じられている場所はまれで、植林されたマングローブ林の多くはエビ養殖池や居住区へと姿を変え、再び減少する傾向にあります。メコンデルタではこの50年間に約80%のマングローブ林が消失したといわれています。また、残されたマングローブ林もエビ養殖池の水路によって徹底的に細分されており、かつての様子とは大きく異なります。

ベトナム・カンザー地区のNDVI(正規化植生指標)画像

変化するマングローブ林の涵養機能

 マングローブ林がなくなるということは、そこで生産される有機物に依存している多様な生物が失われるということを意味します。メコンデルタでも、マングローブ林内や近海における漁獲量の低下が懸念されています。絶対的なマングローブ林面積の減少によって魚介類の産卵場所や生育地そのものが消失していることが直接の要因と考えられますが、残された森林の質的な変化についても漠然とした懸念が持たれています。

 私はこの漠然とした懸念に科学的な回答をすべく、規模や林齢、管理方法の異なるマングローブ林で河川水や土壌水中の化学物質濃度、林床土壌の窒素固定活性などを測定しています。これまでの調査から、都市域やエビ養殖池地帯の水路から流出する水には高濃度の窒素が含まれることが明らかになりました。また、マングローブ林土壌の窒素固定活性は森林の管理方法や周辺環境によって異なり、エビ養殖池の水路で囲まれたマングローブ林は完全保護管理されているマングローブ林よりも窒素固定活性が低いことが明らかになりました。つまり、都市やエビ養殖池が背後に迫っているメコンデルタのマングローブ林では、本来大気中の窒素を利用していたマングローブ植物が、都市や養殖池から供給される人工由来の窒素を利用するようにシフトしてきているのかも知れません。また、排水中の態窒素以外にも、窒素固定活性に影響を及ぼす因子が潜んでいる可能性もあります。今後、さらに検討を続けていく予定です。

一筋縄ではいかない問題

 マングローブ域で起きている問題は、一筋縄で解決できるものではありません。なぜなら、現在マングローブ域で生活している人びとの多くはエビの養殖で生計を立てているからです。また、マングローブ林を有する国々にとってもエビは大きな収入源です。マングローブ林を管理する立場の人が、副業でエビ養殖をしているということも少なくありません。人とマングローブ生態系が共生していくためには、さまざまな角度からこの問題を捉えることが必要です。

 日本では、スーパーへ行けばエビや魚など、毎日の食卓を彩るほとんどすべてのものがたやすく手に入りますが、これらの多くは遠くの豊かな生態系で生産されたものです。マングローブ生態系は「遠く離れた熱帯のジャングル」、と思いきや、実は私たちの日々の生活を支えてくれている「隣の森」なのです。この森の将来について真剣に考える時期が来ています。都市化や開発が急速に進む国々におけるマングローブ生態系の修復や維持を考えていく上で、マングローブ生態系の仕組みを解明する研究は急務です。

雑誌「グローバルネット」(地球・人間環境フォーラム発行)229号(2009年12月号)より引用

目次ページの写真は、ベトナムでのフィールド調査の様子 

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