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2011年8月31日

ハード的なものとソフト的なもの

【巻頭言】

理事 佐藤 洋

 大きな揺れの中なんとか停止した列車の窓から外を見ると、近くの山林からうっすらと煙がたなびいていました。山全体から煙がでているので、山火事にしてはおかしいと思いましたが、その煙が花粉であろうと推測がつくまで、しばらく時間がかかりました。大地震で山も揺れ、木々も揺すられたために花粉が飛散したのでしょう。2011年3月11日午後3時前、栃木県北部の新幹線の中でした。

 その当時、まだ仙台に居た私は都内での会議を終えて、東北新幹線で帰仙の途中でした。金曜日の昼過ぎの列車は、乗客もまばらで静寂を保っていました。ほぼフルスピードで走行していた列車がスピードを落とすのを感じ、「停電かな?」と思った時、大きな揺れに襲われ、前の椅子の背をつかんで座席から振り落とされないようにするのが精一杯でした。横揺れが大きく、これは脱線するのでは、覚悟を決めねばなどと、混乱した頭の中を様々な思いが駆け巡っているうちに、列車は停止しました。後に聞いたところでは、走行中の新幹線はすべて無事に停止したということでした。

 東北新幹線が走行する地域のほとんどで震度6以上でしたが、にもかかわらず走行中の新幹線が脱線せずに停車したことは、たいしたものです。新潟県中越地震の際には、上越新幹線が脱線したようですが、その後緊急停止の技術が進歩したのでしょうか、とにかく乗車している者にとっては、大変有り難いことでした。

 さて、無事に停車はしたものの、停電したままで、わずかなアナウンスがあったまま車内に放置されました。携帯電話は通じず、インターネットへのアクセスもままならないため、家族や職場、知人とは十分な連絡は取れませんでした。幸い車内にカード式の公衆電話があり、いつか使うかもしれないと手帳に潜めておいたテレフォンカードで、東京都内で会社勤めをしている家族の一人に無事を伝えることができました。混乱時であっても公衆電話の接続は優先されると聞いていましたが、確かなことであったようです。

 あたりが薄暗くなっても余震が続いていました。暗くなるにつれて寒さが増し、ペラペラのプラスティックシートにアルミ箔が貼られた寝袋(というのでしょうか)が渡されました。多少の寒さしのぎにはなりましたが、やはり暖房が切れたままでは寒いものでした。水も食べ物も無いまま夜10時過ぎまで車中で待機してから、はしごで線路におりてしばらく歩きました。あたりは停電のために真っ暗で、これほど多数の星があるのかというほど多くの星が見えました。避難所でその夜を過ごした後、仙台に戻れたのは3日後の14日昼のことでした。

 震災対策にはハード的なものとソフト的なものがあると思います。地震の揺れの中で新幹線を停止させる技術は確立できたとしても、その後避難所を準備して乗客を誘導するまで、ほぼ8時間もかかりました。万里の長城といわれた防潮堤は破壊され、それを乗り越えた津波は集落を襲いました。津波が来たら、とにかく高台に逃げる訓練をしていた人々は助かったと言われています。自然の大きな力の前に人間の力は無力なのかもしれません。しかし、智慧や想像力は有効だと思います。震災対策だけではなく、環境を対象とした科学の推進や技術の開発にあたっては、単なる知識だけではなく智慧や想像力も働かせなくてはいけないのだと考えるこの頃です。

(さとう ひろし、研究担当理事)

執筆者プロフィール:

理事 佐藤 洋

昨年度、非常勤の参与として、また、環境研究所に設置されたエコチル調査(環境省子どもの健康と環境に関する全国調査)コアセンター長として、月に一度程度来所していたが、本(2011)年4月に理事に就任。環境研究の幅広さに戸惑った毎日を過ごしています。

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