陸域の炭素収支における草原の役割
研究ノート
唐 艶鴻
森林に恵まれている日本の周囲を見渡すと,太平洋東岸のアメリカ大陸,西の中国大陸,南のオーストラリア,北のロシア地域,例外なく「草原の地域」が広がる。これらの地域の三分の一または半分以上は草原植生になっている。世界的に見ても,温帯草原に加え,ツンドラ,サバンナ,湿地など草本植物が優占する植生(広義の草原)は陸地の40%以上を占めるといわれている。ここでは,地球温暖化と草原生態系との関わりに注目してこれまであまり広く知られていない草原の姿の一面を見てみる。
CO2濃度の上昇は地球温暖化を引き起こす主要因と考えられている。植物は体を作るための原材料としてCO2を吸収し,結果的に大気中のCO2濃度の増加を抑制するような役割がある。体の大きい植物はより多くのCO2を吸収したことを意味する。したがって,同じ面積の草原を森林と比べる場合,森林の方がより多くのCO2,すなわち,炭素を蓄積できる。表に示したように,森林の樹木は草原の草より多くの炭素を持ち,単位面積あたり森林植物炭素量は草原の約4倍にもなる。しかし,植物はCO2を吸収して自分の体だけでなく土壌中にも蓄積している。これまでのデータをみると,単位面積あたりの土壌炭素量は,草原と森林との間に大差がないことがわかっている。一方,草原の面積が大きいので,陸域全体における草原土壌の炭素蓄積量は森林土壌より高くなることも容易に理解できる。その結果,生態系に蓄積する炭素の総量において,草原は森林とほぼ同じ程度である。
では,なぜ草原生態系は土壌中に多くの炭素を蓄積できるのか。植物は大気中からCO2を吸収するが,生命活動を維持するために呼吸を行い,CO2を排出する。また,植物の枯死部分はミミズのような土壌動物や多くの微生物によって分解され,CO2を放出する。植物体の炭素は主にこれらの代謝と分解過程によって再び大気中に放出される。土壌中の炭素の蓄積は,吸収する炭素量がこれらの呼吸によって消耗する炭素量より大きい場合のみ可能になる。草原土壌に多くの炭素が蓄積できるのは,以下のような理由によると考えられる。まず,多くの草原は森林が成長できないような乾燥しているか,寒冷な気候,またはその両方の気候条件下で成立する。植物や微生物の生命活動は乾燥と寒冷条件に弱いので,これらの条件は炭素の吸収も分解も抑制するはずである。しかし,草原地帯では植物の成長にとって比較的好適な水と温度環境が恵まれる期間がある。この好適な期間は普通短いもので,植物はこの短い期間を利用して活発に光合成を行い,効率よくCO2を取り込むことができる。しかも,多くの場合草本植物の光合成速度は木本植物より高い。一方,一年の大半は乾燥や低温によって炭素の分解過程が抑制されることになる。その結果,年間の生態系CO2純吸収量は森林と比べ必ずしも低くはない。草原の方が森林より高いという報告もある。さらに,草原植物の体の構造も土壌に炭素を蓄積しやすくするような面がある。樹木と違って草本植物の根または地下茎が発達している。目安として植物体乾燥重量においては,地上部と地下部比は,樹木の5:1に対して草本は1:5と考えられる。すなわち,草本植物は吸収したCO2の大部分を見えない地下部に溜め込んでいる。分解されない地下部や,土壌動物と微生物の残骸などは土壌炭素として蓄積される。このようなことから,大気中CO2 濃度の上昇を抑制するためにも,草原が砂漠化したところを再び草原に戻すことも真剣に考える必要があるかもしれない。
草原土壌に多くの炭素が蓄積されていることは,地球環境変動の中,大きな不確定要素になることにも言及しなくてはならない。まず,この膨大な炭素プール(炭素がたまっているところ)は気候の温暖化に極めて敏感に反応することが予想される。温暖化によって光合成生産が促進される場合もあるかもしれないが,気温,とりわけ土壌温度の上昇は土壌中の炭素分解過程を加速し,草原から多くの炭素を放出する恐れもある。また,温暖化に伴う降水量の変化もこの巨大な炭素プールの大きさを左右するだろう。さらに,多くの草原は過放牧などによって退化,または退化の危機に瀕している。その極端な場合は砂漠化であり,それに伴い大量の炭素が放出されることが予想される。人口の増加によって草原が農地に変わり,土壌炭素の分解が加速されることも多く報告されている。したがって,陸域の炭素プールの約半分を占める草原生態系の炭素量は地球環境の変動に伴い,大きく増減することが予想される。この意味でも,陸域の炭素収支における草原の役割を真剣に考える必要があると思われる。
しかし,現段階においては陸域全体の炭素収支における草原の役割に関して,十分に正確な評価を行うことは難しい。空間的不均一性が高く,広大な草原生態系の炭素動態に関するデータは乏しく,とくに東アジア地域とユーラシア大陸の草原についてこれまでの知見は少ないからである。そこで,2年前から,多くの方々のご指導とご協力のもとに「温帯高山草原生態系における炭素動態と温暖化影響の評価に関する研究」と「青海・チベット草原生態系における炭素循環のプロセスとメカニズムの解明」との研究課題を立ち上げた。いずれも高山草原生態系を対象としており,前者は炭素動態そのものに焦点を当て,後者ではその生態学的メカニズムの解明に力を入れている。
我々の研究対象になっている青海・チベット高原草原(写真1)は,地球の第三極ともいわれているところであり,平均標高が4,000m以上ある。その面積は約250万平方キロ,中国の4分の1の大きさである。これだけの標高にもかかわらず,この高原は豊かな草原が海のように果てしなく広々と広がっている。同緯度のほかの生態系と比べ,光が強く,昼夜の気温差も大きい。このような環境条件では生態系の炭素が蓄積する可能性が高いと考えられるが,現地の測定データはほとんどなかった。そこで,我々は2001年8月から中国青海省海北地区の高山草原でCO2 ,H2Oとエネルギーフラックスなどの観測を始めた(写真2)。また,草原生態系の各炭素プールの定量化,それぞれの炭素プールにおいて炭素の出入り速度(光合成,呼吸など)についての測定を行い,それらのプロセスにおける生態学的メカニズムの解析も進めている。これらの観測と実験を通じて,温帯高山草原生態系の炭素動態が次第に解明されるものと期待されている。たとえば,上記一年目のCO2フラックス観測の結果から,観測地の草原では年間のCO2の吸収量が放出量にくらべ高いことが示唆された。また,昼夜の温度差が大きい時,生態系のCO2純吸収量が高いこともわかった。さらに,草原生態系の炭素吸収における生物学的メカニズムの解明に関して,高山草原の現存量は生態系の植物の種多様性と強く関係していることも分かりつつある。陸域生態系の炭素収支における草原生態系の役割の解明という観点から,大変興味深い結果である。今後の継続観測と実験調査によって,陸域生態系の炭素動態における草原の役割は次第に明らかになることが期待される。
執筆者プロフィール
筑波大学生物科学研究科博士課程修了。93年入所。これまで草原,農地と森林の光環境について研究。何にでも興味を持つが変わらない趣味は読書