生物多様性はかならずしも明確に定義された言葉ではないが, ある地域の生物のさまざまな面での多様性の総体を指すものとして 使われている.その内容としては,そこに生存する種の多様性, 生物の生き方の多様性,生物間の相互作用の多様性,地域間の生物相の多様性, 種内の遺伝的な多様性などがあるだろう.
こうした多様性が人間活動によりしだいに消滅しつつある. 「生物多様性プロジェクト」は,生物多様性を脅かす要因をいくつか とりあげて,どのようなメカニズムで多様性が影響を受けるのか,その ことはどのような副作用を持ち得るのか,そうした影響を回避するには どのような対策があり得るのか,などについて研究を進める プロジェクトである.そのなかで,私は,多様性プロジェクトのなかで, とくに森林の樹種の多様性を対象として数値モデルによる解析を行う予定である.
とはいえ,森林の樹種の多様性に関しては,生態学的に未解明の問題が たくさんある.学問の現状を踏まえないままに,プロジェクト研究を 推進すればなんでも分かるふりをしても百害あって一利なしである. まずは何が分かっていて何が分かっていないのかを押さえておく必要がある.
森林の樹種の多様性に関する未解明の問題点をいくつか挙げてみる.
まず,そもそもなぜ多種が共存できているのかが不思議である. 森の木々はいずれも光,水,栄養塩など共通の資源をめぐって 競争していると考えられる.競争力に種間で強弱があれば,時とともに 弱者は排除されて,最後はもっとも強い1種だけが生残りそうなものである. しかし実際には多数の樹種が共存している.これはなぜだろうか. いろいろな仮説はあるが,広く受け入れられた説明はいまだない.
ある地域に生存している樹種の数は,その地域の環境の容量のようなもので 制限されているのか,それとも容量には余裕があるものの, そこに種子が散布された樹種の数,あるいは進化の中で分化した種の数などが制限 しているのかもよく分かっていない.
地域間での種数の違いも説明されていない課題である. シベリアの針葉樹林帯では1種から数種程度の高木しか見られないのに対し, 熱帯雨林では狭い面積のなかに何百もの樹種を見ることができる.このような 地域による多様性の違いの原因はなんだろうか. 熱帯では気候条件がよく,光合成生産が盛んに行われるから多種が共存できる のだ,などという説明がされることもあるが,どうして生産性が高いと 多種が共存できるのかを論理的に説明しなければ,このままでは答えになっていない.
ある地域の森林の中でで個々の樹種の分布パターンや,地理的なスケールでの 樹種の分布パターンが,どこまで環境条件と樹種の性質により必然的に決まって いるものであり,どこまでが過去の歴史をひきずったものであり,そしてどこまで が偶然によるものなのかも議論がいろいろあるところである.
このように,森林の樹種の多様性に関する生態学の課題はいまだ未解決である. となると,多様性の決定メカニズムも分からないのに保全策を考えることは そもそも可能なのかが問われる.
このような問いに対しては,必ずしも不可能ではないと答えたい. たとえば,人間が生きているメカニズムの完全な解明は難しいが, 命にかかわる危険の指摘は可能である.おなじように,多様性の決定メカニズムを 完全に明らかにすることは困難であっても,生物多様性になんらかの影響を 与えるような要因や人間活動の指摘はある程度まで可能なはずである. こうした立場から生物多様性プロジェクトに取り組んでいきたい.
具体的には,基本的な道具立てとして森林の個体ベースモデルを用い, 以下のようなテーマで研究を進めて行く. その過程で,生態学の重要な課題のひとつである多様性の維持メカニズムの 理解に関して,なんらかの貢献ができればたいへん嬉しい.
などの場合に,数百年から千年程度の時間スケールでの種の消長や局所的 絶滅の可能性を評価するモデルとその利用法を確立したい.
現実の森林とモデルとの比較から,木々の種子散布と定着プロセスが, 樹種の分布パターンとどのように関係しているのかを解析する.こうした 研究は,小さいスケールでの生物相の空間的不均一性を理解するうえで 有用となるはずである.
緯度や高度に応じた気候帯に対応して,森林の構成種にも帯状の分布パターンが 見られる.こうしたパターンは水平分布(緯度に対応している場合)や垂直分布 (標高に対応している場合)などと呼ばれる.こうした分布パターンは,地球レベル の気候が変動すれば,それに対応して変化するものと予測されるが,個々の樹種の 分布域の移動速度はどのような要因に影響されるのか,気候の変動にどこまで スムーズに追随できる,あるいはできないのか,などを解析する.
現在我々が目にする植生パターンは,かならずしも平衡状態にあるものではなく, 過去の気候変動の歴史を背負っているはずである.したがって,こうした研究は 現在の植生パターンを理解するうえで大きな意味があるはずである. もちろん,現在進行中とされる地球温暖化が森林に与える影響を予測するうえでも 有用であろう.
このようななが時間スケールの現象を扱う研究では,モデルの予測と 現実とを対応させて検証することはむずかしいが, 堆積物中の花粉や化石のデータに照らしながら, 現実味のあるモデルを考える.
DNAによる親子判定の成果などを活かしたシミュレーション実験ができるかどうか 考えてみたい.
(コメント) 具体的ななにものか(たとえば茨城県の森林,というように)を表現するような 形にすれば,より一般に理解されやすくなるのではないか.
(答え) たしかにそうかも知れない.しかし,多くの仮想的なパラメータを与えつつ, 林の形だけ特定の地域のそれに似せてみせることに,研究としてどれだけの 意味があるのか疑問ではある.
(コメント) 樹種の特性はどのようにモデルに反映されているのか? たとえば,最近手入れを放棄した竹林からどんどん竹が拡大して問題になっている. 竹の繁殖特性を取り入れることで将来予測はできないか.
(答え) 今のところ,すべての樹種は同じ成長・繁殖・死亡特性を持つとしている. これは,ひとつには定量的なデータを樹種ごとに得るのはあまりに大変だからだが, より重要な問題として,どれかの樹種の特性を競争力が強くなる側に変えればその 樹種が多数派となり他の種を駆逐していくのは自明だ,ということがある.
なぜ現実の森林では競争排除により特定の樹種の寡占状態になっていないのかは 生態学的にも大きな謎である.その理解がない状態で,はじめから勝負の見えてる 競争実験をしてもしかたがないような気もする. 多種の共存のメカニズムについて,自分なりの理解や仮説を用意したうえで 考えたい.
(コメント) たとえば熱帯林では,研究者は基礎的なメカニズムの研究ばかりをやっていて, なかなか保護の現場で役立っていないという指摘がある.もっと社会の要求する 「答え」に直結する方向性が必要ではないか.
(答え) 研究者集団全体のなかに,基礎的な部分に興味を持つ人も,社会の要求への 対応に重点を置く人もいるだろう.一人でなにもかもはできない. 私としては,基礎的な部分をしっかりやることに重点を置きたい. プロジェクトの成果としては社会の要求に応えるようなものも出せると考えている.
(コメント) 温暖化に対応した植生の移動のシミュレーションは現実問題に対応するもの として理解しやすい.登場する樹種を単に種A,種Bとするのでなく, 具体的な種名を入れることができれば,よりインパクトがあるのではないか.
(答え) 特定の種についてちゃんとした定量的なデータを取ることはなかなか大変で, 一人で5年でできることではない.
(コメント) 無理に「ちゃんとした定量的データ」を取ろうとせず,あるていどラフな推定 でどこまで行けるかを考えてはどうか.
(答え) 検討してみる.
(コメント) 紹介された個体ベースの数値シミュレーションモデルと, 微分方程式で表現するようなモデルと,どのように使い分けるのか.
(答え) モデル化する対象による. 絶滅のように,個体数の有限性や,確率的な変動が重要な意味を持つ現象の場合, 連続変数で決定論的な式を使ったモデルでは表現しにくい部分がある.