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無機ヒ素による発癌メカニズムの解明に向けて

【研究ノート】

鈴木 武博

はじめに

 天然由来の無機ヒ素が世界各国で健康被害をもたらしています。なかでも,中国・インド・バングラデシュなどにおいて,高濃度の無機ヒ素が地下水に混入し,それを生活用水として利用している住民に大きな被害を与えています。特に深刻な影響としては,がんの発症があります。疫学的な調査から,無機ヒ素の長期摂取により皮膚がん,膀胱がん,腎臓がん,肺がん,肝臓がんが発症することが明らかとなっているため,無機ヒ素によるがん発症メカニズムの解明は極めて重要な課題です。私達のグループでは,最近,がんへの関連が指摘されている「エピジェネティクス」に着目して,無機ヒ素がどのようにがんを発症させるのか,そのメカニズムの解明を目指して研究をおこなっています。

エピジェネティクスとは?

 さて,「エピジェネティクス」とは何でしょう。日本語で表現すると,「DNAの塩基配列変化によらない細胞特有の遺伝子発現の変化が,細胞世代を超えて伝達される現象」のことです。例えば,人間一人のDNAの塩基配列はどの細胞でも全く同じです。しかし,DNAの塩基配列が同じにもかかわらず,体内では,それぞれの細胞が異なった臓器を作り出しています。これは体の各臓器の細胞が,臓器ごとに独自の遺伝子発現をしているからです。各臓器の細胞の形態,機能は細胞分裂をしても安定ですので,細胞には世代を超えてその細胞に特有の遺伝子発現を伝える,いわば細胞の記憶というべきものが存在していることになります。これが「エピジェネティクス」です。生まれた時からまったく同じDNA配列をもっている一卵性双生児が,年齢を重ねるにつれて,その容姿や性格が違ってくることにもエピジェネティクスが関係していると考えられています。

エピジェネティクスの作用メカニズム

 エピジェネティクスの作用メカニズムは,主に,「DNAのメチル化」と「ヒストンのメチル化」です。メチル化とは,ある化合物にメチル基(CH3基)が結合することです。複数のメチル基が結合することもあります。

 DNA塩基配列中のシトシンとグアニンが隣り合った部分(CG配列)のシトシンがメチル化されることを「DNAのメチル化」といいます。DNA塩基配列中には遺伝子発現がスタートする部位(転写開始点)があります。転写開始点付近のシトシンが多くメチル化されている高メチル化状態だと遺伝子発現が抑制され,逆に,転写開始点付近のシトシンがほとんどメチル化されていないと遺伝子発現は活性化すると考えられています(図1-A)。

図1 DNAとヒストンのメチル化 (A)DNAのメチル化の模式図。遺伝子発現の活性化と抑制を矢印で表しています。(B)ヒストンのメチル化の模式図。ヒストンは,ヒストンH2A, H2B, H3, H4それぞれ2分子ずつから成る8量体構造をとっています。各ヒストンからヒストンテイルは出ていますが,主に,ヒストンH3のテイルが遺伝子発現調節に重要であると考えられています。
図1 DNAとヒストンのメチル化(拡大画像)
 (A)DNAのメチル化の模式図。遺伝子発現の活性化と抑制を矢印で表しています。(B)ヒストンのメチル化の模式図。ヒストンは,ヒストンH2A, H2B, H3, H4それぞれ2分子ずつから成る8量体構造をとっています。各ヒストンからヒストンテイルは出ていますが,主に,ヒストンH3のテイルが遺伝子発現調節に重要であると考えられています。

 DNAは生体内ではヒストンというタンパク質に巻き付いて,非常にコンパクトな構造をしています。ヒストンテイルとよばれるヒゲのようにヒストンからはみでた部分のリシン(1文字でKと表します)がメチル化されることを「ヒストンのメチル化」といいます(図1-B)。リシンには3つまでメチル基が結合します。2つのメチル基が結合することをジメチル化,3つのメチル基が結合することをトリメチル化といいます。ヒストンのメチル化の場合,メチル化されるリシンの位置と,結合したメチル基の数で遺伝子発現への作用が異なります。たとえば,標的の遺伝子が巻きついているヒストンH3の4番目のリシンがジメチル化されている場合,遺伝子発現が活性化します。一方で,ヒストンH3の9番目のリシン(H3K9と表します)がジメチル化されている場合と,ヒストンH3の27番目のリシン(H3K27)がトリメチル化されている場合は遺伝子発現が抑制されるなど,作用が異なります。

無機ヒ素によるエピジェネティクスの変化

 最近になり,無機ヒ素によるがん発症にエピジェネティクスが関係している可能性が報告されました。その報告では,マウスに無機ヒ素を混ぜた水を18ヵ月飲ませ続けると肺がんがより多く発症し,肺がん組織では,p16INK4aとRASSF1Aというがんを抑制する方向に働く「がん抑制遺伝子」の発現が減少していることがわかりました。このとき,どちらの遺伝子も転写開始点付近が高メチル化状態であったため,無機ヒ素によりDNAが高メチル化状態になり,がん抑制遺伝子の発現が減少することが肺がんの原因ではないかと推定されています。しかしながら,この実験系では,無機ヒ素を飲ませないマウスでも肺がんが発症する場合があり,がんが発症した組織においては,無機ヒ素を飲ませた場合と同様にがん抑制遺伝子の転写開始点付近の高メチル化状態が観察されています。つまり,無機ヒ素が直接的にがん抑制遺伝子のDNAメチル化状態を変化させたかどうかについては明らかにされていないため,これまでのところ無機ヒ素によるがん抑制遺伝子の発現調節メカニズムは詳細にはわかっていません。

 そこで,私達は無機ヒ素によるがん抑制遺伝子の発現調節メカニズムの解明を目的として,50ppmの無機ヒ素をマウスのオスとメス7匹ずつに6ヵ月間飲水投与し,それぞれのマウスの肝臓と肺で検討しました。各臓器には,がんは発症していませんでした。まず,無機ヒ素でDNAが高メチル化して発現が減少すると考えられているp16INK4aとRASSF1Aの発現変化を逆転写PCR(RT-PCR)法で調べました(図2-A)。その結果,RASSF1Aの発現は肝臓でも肺でもオスでもメスでも無機ヒ素により変化しませんでしたが,p16INK4aの発現はオスの肝臓においてのみ無機ヒ素により大きく減少することがわかりました。定量的に遺伝子発現を測定するリアルタイムRT-PCR法によってもオスの肝臓では無機ヒ素によりp16INK4aの発現が減少していることが確認できました(図2-B)。p16INK4aは,転写開始点付近のDNAメチル化により発現が調節されることが報告されていましたが,実際に調べてみるとDNAのメチル化状態は無機ヒ素により変化していないことがわかりました。

図2 無機ヒ素によるp16INK4a遺伝子の発現変化とヒストンメチル化変化(オス肝臓) (A)RT-PCR法によるp16INK4aとRASSF1Aの発現変化。バンドの濃さが遺伝子の発現量を表します。濃ければ濃いほど多く発現しています。無機ヒ素曝露の有無による遺伝子発現についてRASSF1Aでは差がありませんが,p16INK4aで差があることがわかります。(B)リアルタイムRT-PCR法によるp16INK4aの発現変化。*有意差p<0.05。(C)無機ヒ素によるp16INK4a転写開始点付近のヒストンメチル化変化の模式図。
図2 無機ヒ素によるp16INK4a遺伝子の発現変化とヒストンメチル化変化(オス肝臓)
(拡大画像)
 (A)RT-PCR法によるp16INK4aとRASSF1Aの発現変化。バンドの濃さが遺伝子の発現量を表します。濃ければ濃いほど多く発現しています。無機ヒ素曝露の有無による遺伝子発現についてRASSF1Aでは差がありませんが,p16INK4aで差があることがわかります。(B)リアルタイムRT-PCR法によるp16INK4aの発現変化。*有意差p<0.05。(C)無機ヒ素によるp16INK4a転写開始点付近のヒストンメチル化変化の模式図。

 先に述べたように,DNAメチル化に加えて,ヒストンメチル化もエピジェネティックなメカニズムとして重要です。無機ヒ素でp16INK4aの発現が減少したので,遺伝子発現を抑制するタイプのヒストンメチル化状態を調べました。その結果,ヒストンH3K27のトリメチル化は無機ヒ素により変化しませんでしたが,ヒストンH3K9のジメチル化は無機ヒ素により増加することがわかりました。これらの結果から,無機ヒ素によるp16INK4aの発現減少には,遺伝子発現を抑制するヒストンH3K9のジメチル化が関係する可能性が示唆されました。がん抑制遺伝子の発現減少は,がん発症に密接に関連がありますので, 無機ヒ素がヒストンメチル化を介してp16INK4aの発現を低下させるという今回得られた結果は,無機ヒ素によるがん発症メカニズムの一つに関与する可能性があります(図2-C)。今後は,無機ヒ素がどのようにしてヒストンのメチル化に影響を与えるのか,その分子メカニズムに迫りたいと考えています。無機ヒ素が直接作用するターゲットが分子レベルで明らかになる可能性があり,無機ヒ素によるがん発症の予防やリスク評価への応用を期待しています。

おわりに

 無機ヒ素はすでに毒性が報告されていますが,現在はわかっていなくとも,近い将来人々の健康を脅かす作用を持つ無機ヒ素以外の化学物質が明らかになる可能性があります。化学物質の人々の健康に対する悪影響の予防やリスク評価の際に重要になるのは,その化学物質の毒性発現メカニズムです。既知の様々なメカニズムに加えて,今回紹介したようなエピジェネティクス作用を介するメカニズムも,未知なる化学物質の人々の健康への悪影響の予防やリスク評価へのアプローチに非常に有用であると考えています。

 

(すずき たけひろ,環境健康研究領域 
分子細胞毒性研究室)

執筆者プロフィール

鈴木 武博氏

 山形県出身のB型です。山形といえばサクランボ,ラ・フランス,日本酒など。どれもとてもおいしいです。特に日本酒(アルコール)については,生体への影響を自分の体で研究し続けていますが,耐性が高いせいか,いまだ影響が出ていません。今後も成果が出るまで(←何の??)研究を続けていきます!