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陽子移動反応−質量分析計を用いた大気中ホルムアルデヒド濃度の決定

【研究ノート】

猪俣 敏

 ホルムアルデヒド(HCHO)は,国際がん研究機構の発がん性評価でグループ1の“人に対して発がん性あり”と警告されている物質です。大気中では,人為活動または生物活動によって放出される様々な炭化水素の大気酸化過程で生成されます。生成したホルムアルデヒドは,水酸分子(OHラジカル)との反応や光分解によって分解されますが,後者の光分解によってH原子とHCOに分解された場合,2つのOHラジカルを,それぞれ多段階の反応過程を経て生成することになります。これにより,大気中の酸化能力が高まり,大気汚染物質の光化学オゾンの生成が高まると考えられます。このような点から,ホルムアルデヒドの大気中濃度,とりわけ都市域での濃度の把握に力が入れられてきています。

 大気中のホルムアルデヒド濃度の測定法として,差分光吸収分光法といった分光学的な手法,2,4-ジニトロフェニルヒドラジン(DNPH)による誘導体化を行い液体クロマトグラフィで分析する手法,ハンチュ(Hantzsch)反応を利用した発光法などがあります。これまで何度もこれら手法による大気中ホルムアルデヒド濃度の相互比較が行われてきましたが,一致の程度は“良い”から“悪い”まで様々で,しかも決まった傾向があるわけではありませんでした。

 ホルムアルデヒドの新たな測定法として,陽子移動反応-質量分析法(Proton Transfer Reaction - Mass Spectrometry; PTR-MS)が用いられるようになってきました。PTR-MSは,実大気濃度レベルの揮発性有機化合物を高速(秒のオーダー)で測定できる手法(1ppbv以下の検出下限を有する ; 1ppbvは109分の1の体積混合比)として近年開発され,現在ではフィールドでの揮発性有機化合物の観測に広く用いられています。検出の原理ですが,プラズマ放電中に水蒸気(H2O)を流してH3O+イオンを生成し,これを試料気体と反応させると,試料中の有機化合物MにH3O+の陽子が移動して,MH+イオンを生成します。

 H3O+ + M → MH+ + H2O (1)

 この生成イオンMH+を質量分析計で検出します。陽子親和力(陽子の受け取りやすさを表す指標)が水よりも大きい物質にはこの陽子移動反応が起こるため,低分子のアルカンのような一部のものを除き,多種類の揮発性有機化合物を測定することができます。ホルムアルデヒドの場合,反応(2)で生成するHCHO・H+を検出することになります。

 H3O+ + HCHO → HCHO・H+ + H2O (2)

 ホルムアルデヒドをPTR-MSを用いて測定するメリットとして,ホルムアルデヒドの起源物質,例えば森林から放出されるイソプレンなど,を同じ時間スケールで同時にPTR-MSで測定できるという点があります。

 しかしながら,PTR-MSによるホルムアルデヒドの定量には問題点が2つあります。1つ目は,ホルムアルデヒドの陽子親和力はH2Oの値と近く,水が多いと反応(2)の逆反応(-2)が起こるため,ホルムアルデヒド測定感度に湿度依存性があることです。しかしながら,その実測はこれまで行われていませんでした。

 HCHO・H+ + H2O → H3O+ + HCHO (-2)

 2つ目は,ホルムアルデヒドの測定値が他の有機化合物からの干渉を受ける可能性があることです。例えば,過酸化水素メチル(CH3OOH)は,陽子移動反応で親イオンCH3OOH・H+の他に,その解離イオンとしてCH3O+が生成することが予想されています。CH3O+の質量数はHCHO・H+の質量数の31と同じで,イオンシグナルが重なってしまうことになります。過去のフィールド観測例では,過酸化水素メチルの干渉だけでは説明できないことが指摘されていました。

 私たちは,PTR-MSによるホルムアルデヒド測定におけるこれら2つの問題点を解決すべく,湿度依存性も含めたホルムアルデヒドの測定感度の決定と,干渉が予想される化合物の特定とその寄与率の決定を実験室系で行い,2006年6月に中国泰山山頂で行われた集中観測で取得したデータの解析に適用しました。また,その結果を他のグループが分光学的手法によって測定していたホルムアルデヒド濃度の測定結果と比較しました。

 実験室系で得られたPTR-MSによるホルムアルデヒドの測定感度の湿度依存性を図1に示します。まず,乾燥空気条件での感度は,反応(2)の反応速度定数と反応時間から計算される感度とほぼ一致しました。次に感度の湿度依存について,図1に示す通り,試料中の水蒸気量が増えるに従い,感度が減少しました。これは水蒸気量が増えるに従い,反応(-2)の寄与が大きくなり,HCHO・H+の生成が抑えられるためと考えられます。得られた湿度依存性は,反応(2)と(-2)が平衡に達しているとした時に予想される湿度依存性として説明することができました。本装置での湿度依存を含めたホルムアルデヒドの測定感度S(ncps/ppbv)をS=169/(X+13.1)と決定しました。Xは試料中の水蒸気濃度(mmol/mol)を表します。

図1 ホルムアルデヒドの親イオン強度(ncps)の試料中の水蒸気濃度(mmol/mol)依存性。測定時のホルムアルデヒドの濃度は,9.0ppbvに相当。(ncpsはnormalized count per secを表し,H3O+イオン強度を106cpsとした時の1秒あたりのホルムアルデヒドの親イオンカウント数。mmol/molはミリモルper モル。)
図1 ホルムアルデヒドの親イオン強度(ncps)の試料中の水蒸気濃度(mmol/mol)依存性。
 測定時のホルムアルデヒドの濃度は,9.0ppbvに相当。(ncpsはnormalized count per secを表し,H3O+イオン強度を106cpsとした時の1秒あたりのホルムアルデヒドの親イオンカウント数。mmol/molはミリモルperモル。)

 次に,干渉が予想される化合物として,前述の過酸化水素メチルの他,低分子のアルコールが干渉することを見いだしました。アルコールはR-CH2OHの構造を持つため,解離イオンとしてCH2OH+が生成するものと考えられます。質量数31に現れる解離イオンのそれぞれの親イオンMH+強度に対する比を,過酸化水素メチルが0.92±0.06,メタノールが0.0073±0.0002,エタノールが0.045±0.004と決定しました。

 本装置を2006年6月に中国泰山山頂に運び,そこで揮発性有機化合物の多成分の測定を行いました。図2(a)に観測されたホルムアルデヒド濃度の時系列変化を示しています。先に説明した湿度依存性,他の化合物の干渉の寄与を考慮した補正を行っています。データは30分値で,検出下限は0.2~0.5ppbvでした。6月12日の深夜にバイオマス燃焼由来と思われる気塊を捉えたため,ホルムアルデヒドだけではなく,他の揮発性有機化合物濃度も高濃度で検出されましたが,それ以外の日でも0~6ppbv程度の濃度範囲で変化することがわかりました。24日から28日にかけては午後に濃度が高くなる日変化を捉えています。また,降雨の時,例えば,13日の夜から14日の朝にかけて,ホルムアルデヒド濃度は低くなる傾向も捉えました。図には,地球環境フロンティア研究センターのグループが同時に測定していた分光学的手法(MAX-DOAS)によって得られたホルムアルデヒド濃度結果も示しています。図2(b)に両者の測定法で得られたホルムアルデヒド濃度の相関図を示しています。全く独立した手法同士で,かなりよい一致を確認することができました。今後,様々な環境中でのホルムアルデヒド測定に本手法を活用していきたいと思っています。

図2 2006年6月,中国泰山山頂での集中観測時のPTR-MSとMAX-DOASによって測定されたホルムアルデヒド濃度の(a)時系列変化と(b)相関図。(b)の青い実線が回帰直線,赤の点線はy=xの直線。
図2 2006年6月,中国泰山山頂での集中観測時のPTR-MSとMAX-DOASによって測定されたホルムアルデヒド濃度の(a)時系列変化と(b)相関図。
(b)の青い実線が回帰直線,赤の点線はy=xの直線。(拡大画像)

 

(いのまた さとし,大気圏環境研究領域 
大気化学研究室主任研究員)

執筆者プロフィール

猪俣 敏氏

 大分県の国東半島の出身で,瀬戸内の海を毎日眺めて暮らしていましたが,あっという間に関東での生活のほうが長くなりました。