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環境ホルモンによるラット多動性障害

シリーズ重点特別研究プロジェクト:「内分泌かく乱物質の総合的対策に関する研究」から

石堂 正美

 1955年に提唱されたハリス博士の仮説「脳下垂体の神経性調節」の実証をめぐって繰り広げられた,いわゆる「ノーベル賞の決闘」を学部の講義で聞き,ホルモン研究を志した筆者が,環境ホルモンという名の偽ホルモンの研究を手がけるようになるであろうとは夢にも思わなかった。

 環境ホルモンの生殖系への影響が社会問題としてクローズアップされ,実に多くの研究者が生殖系への影響について調べたが,いまだに論争は終結を見せていない。こうしたなか,筆者らは環境ホルモンの脳・神経系への影響について調べることにした。発達期にある脳が環境ホルモンの影響を受けるのではないかと懸念され始め,PCB曝露地域の子供のIQが低いという報告やヒトのへその緒から種々の環境ホルモンが検出されたという報告などが状況証拠として取り上げられてきている。筆者らは,特に環境ホルモンへの胎児・新生児曝露が脳の器質的障害とされる注意欠陥多動性障害(ADHD)や自閉症の原因の一つになっているかどうかの科学的根拠を模索することにした。というのも,ADHDや自閉症に見られる多動性障害のモデル動物を作ることができると提言してくれた友人がいたからである。増尾好則博士(産業技術総合研究所)である。ある化学物質が,ヒトのある疾患の引き金になるかどうかを調べるとき,通常の動物(コントロール動物)に化学物質を投与し,ヒトの疾患の特徴を少なくとも一つを備えた動物(モデル動物)のそれと比較することにより化学物質の評価を下す実験アプローチがよく取られる。モデル動物を作製出来ると言うことは,‘コントロールとの比較実験’から得られる結果がさらに説得力をもつようになる。ネガティブの結果を得たときの心もとなしさがなくなる。特に,実験動物での‘多動’とはどの程度のものを言うのか,その定量的目安となる。筆者らは,6-水酸化ドーパミンという試薬をラット脳に投与し,多動になるラット(モデル動物)を作製した。同時に,環境ホルモンを通常ラットに投与し,自発運動量の増加をモデル動物のそれと比較するという戦略をとった。そうすることにより,筆者らの仮説の白・黒がよりはっきりするであろうと考えたからである。

 生後5日齢の雄ラットの脳(大槽内)に直接,注射針で環境ホルモンを注入した。この時期のラットの大きさは,人の手の親指程度で約10グラム(写真)。神経はあまり分化しておらず,シナプスも出来つつあるとされている。環境ホルモンとして樹脂原料であるビスフェノールAを選んだ。この環境ホルモンの大槽内投与が職人技で,相当の熟練を要する。水溶液の大槽内投与に手慣れていても,オイルに溶かした環境ホルモンとなるとさらに一工夫を要した。

ラットの写真
写真 生後5日齢ラット

 人の学童期に相当する4~5週齢を待って,ラットの自発運動量を測定した。防音箱に遠赤外線を利用した温度センサーが備えてあり,これがラットの動きをとらえる。主に,移所行動を測定するが,立ち上がりや身繕いもカウントされる。磁場を利用した一昔の測定器よりも格段に安定している。防音箱の防音度の設定が重要で,自発運動量測定用にセットしなければならない。明暗サイクルは12時間ずつにセットし,午後7時から測定を開始した。夜行性のラットは,暗いところでは動きまわり,明るいところではじっとして動かない。そうしたリズムを有している。

 測定の結果,ビスフェノールAを大槽内投与したラットの暗期での自発運動量は,コントロールラットのそれよりも約1.6倍増加することが明らかになった。リズムの相に変化はなかった。体重の増え方にも大きな差は見られない。一方,多動性障害モデルラットの自発運動量は,約1.8倍の増加であるから,ビスフェノールAの効果は全く遜色ない(図)。

発現量のグラフ
図 ビスフェノールAによるラット多動性障害

 仮説は黒であった。つまり,発達期にある脳にビスフェノールA(0.2~20マイクログラム)がいったん確実に入ると,脳・神経系の発達障害をきたし,多動性障害を引き起こすことが実証された。環境ホルモンが行動異常をもたらす。ショッキングな結果である。ラットを用いた実験結果なので,直ちに人の健康影響へと言及は出来ないが,やはり動揺は隠し切れない。

 それでは,ビスフェノールAはどのようにしてラットを多動にするのか?筆者らの興味はその分子機序の解明に向けられた。本研究で用いた多動性障害のモデル動物は1976年に報告されたものであるが,いまだにはっきりした分子機序はわかっていない。運動を司るドーパミンの枯渇が原因の一つとして考えられている。さらには,今日の遺伝子欠損マウス作製技術の進歩により,ドーパミン神経伝達機構に関与する遺伝子だけでなく,様々な遺伝子欠損により多動を示すマウスの報告がなされている。そこで,筆者らはDNAマクロアレイ法を用いて,ビスフェノールAにより発現が変動する遺伝子を網羅的に調べた。その結果,ラット中脳のドーパミン輸送体の遺伝子発現がビスフェノールAにより変動することを見いだした。それは,人のADHDの治療として用いられている薬物の標的分子である。このビスフェノールAによるドーパミン輸送体の遺伝子発現の変動がドーパミン含量の変動を伴うものであるかどうかは,その脳内含量を測定することにより多角的に確認する必要があるであろう。

 以上がラットという反応の場においてこれまで明らかになった事柄である。1つの反応の場において,1つの事柄が実証されれば幸運である。これがモットーの筆者らは,上記の方法(大槽内投与)により,環境ホルモンは発達期にある脳に影響を及ぼすことを明らかにした。環境研究の反応の場は,実生活のミニチュア版でないといけないとする立場の方にはアレルギーがあるかもしれない。神経培養細胞を用いたバイオアッセイ法が環境科学研究の手法として市民権を得ているならば,個体レベルのバイオアッセイ法も容認されるべきであろう。神経内分泌学の分野では常とう手段であり,最近では胃で産生されるグレリンというホルモンの中枢作用の実証が例として挙げられる。人のADHDや自閉症は多動を一つの特徴としているが,さらに他人とのコミュニケーションが困難であるとする大きな特徴を併せ持つ。この点にも環境ホルモンが影響しているかどうかを実証するには,また別の反応の場を用いなければならないであろう。

 ビスフェノールAの他にある種のフタル酸エステルやトリブチルスズが,ラットにおいて多動性障害を惹起することを明らかにしている。これらの化学物質の構造と活性との関連性については現在のところ不明である。

 環境ホルモンとして農薬類も多い。昨年の秋,環境ホルモンの優先評価物質として農薬類が列挙された。今,神経科学分野では農薬による神経変性疾患が注目を集めている。環境ホルモンが原因となる新たな疾患が見いだされるのでないかとまた新たな仮説に挑んでいるところである。

(いしどう まさみ,環境ホルモン・ダイオキシン研究プロジェクト)

執筆者プロフィール

学生の頃の失敗が,カドミウムによるアポトーシス誘導を見いだすことに繋がった。電磁界研究における新たな知見は,ホルモン研究で身に着けた知識そのままであった。そして,今回の環境ホルモン研究の成果は,人との出会いにより成就したものである。「私の研究史」を語るにはまだ早い齢であるが,研究における「失敗」「経験」「出会い」の重要性を振り返りつつ,世間が注目する研究には,学問の厳しさ以外の難しさがあると実感した。末筆ながら,重厚な神経科学のみならず研究に対するプロフェッショナルな姿勢を教授してくださった増尾好則博士に改めて感謝いたします。