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環境ホルモンと社会医学

巻頭言

所長 大井 玄

 いわゆる環境ホルモン問題について,一社会医学徒としての見解を述べたい。社会医学は,ある社会がその能力を挙げて,社会を脅かす健康問題に,主として予防的に対応することを図る学問分野といえよう。公衆衛生や保健学はそのカテゴリーに入る。

 だからどの社会でも,疾病に対しそれなりの社会的対応をする限り,社会医学的活動を行っていることになる。例えば14世紀のペストの大流行に対して,その流行した方面から航行してきた船を40日間港外に隔離させる「検疫」を行った。これはペストが潜伏期間を経て発病すること,病人から感染すること,などの因果関係の認識に基づく措置にほかならない。

 19世紀半ばのロンドンでのペスト流行時,ジョン・スノウはある水道会社が給水する地域で死亡率が高いという疾病分布のパターンから,飲料水中にペストを起す原因物質があると推定した。ロンドン市は彼の報告に基づき,その会社の取水方式の改善を命じた。ペスト菌は30年後に発見されたから,細菌学的視点からの因果関係は確立されておらず,これは「予防原則」の発動であった。

 水俣病が水俣湾の魚介類摂取に起因することは,1956年にはすでに確認されていた。しかし毒性学的因果関係が確証されるまで争われたため,厚生省がメチル水銀中毒であると正式に宣言するまで犠牲者の数が増えた。予防原則による工場排水停止を行わなかったからである。

 さて環境ホルモンへの対応を難しくしているのは,感染症や水俣病と違い,環境ホルモンの人体影響が明瞭に同定できない点にある。当研究所では環境ホルモンが騒がれる何年も前からこの問題に注目しており,問題の重大さを予見して世界で初めて通称環境ホルモン学会を設立した。同学会への加入者は科学の多くの分野にわたり急速に増えつつあり,当研究所はこの問題について中核的研究機関として機能している。

 環境ホルモンは,例えば胎児の内分泌作用を撹乱させ,その影響は,子どもの神経・行動・生殖などの側面に現れると疑われている。個人レベルの特徴的症状が認められないならば,環境ホルモンにより強く暴露された観察対象集団を,暴露程度の小さい集団と比較して,影響の大きさと因果関係を推測する疫学的方法が有力になる。

 予防原則は,因果関係が疫学的方法でも実証されないなら,現時点では発動しがたいだろう。

 環境ホルモンは経口的に身体に入る可能性が最大である。容器などの材料についての情報を開示し,それに基づき消費者に選択をしてもらうことが,さしあたり最低限の現実的予防法であろう。

執筆者プロフィール:

東京大学名誉教授