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竹中 明夫

 1993年の夏,当時の上司にとにかく一度行ってみてくれと言われ,シベリアの森林の調査に行きました。それまでロシアに特別な関心はありませんでしたが,ロシア語のにわか勉強もして出かけました。ロシアにはサーシャがいて(男性の10人に一人はサーシャのようでした),レナさんがいて(女性の10人にひとりはレナさんのようでした),ほかにもセルゲイさんやターニャがいました。シベリアの自然やロシアの社会の話を書く紙幅はありません(かわりに,表紙に写真を載せました)が,6年にわたってシベリアに通ううちに,ロシアは地図上の一区画ではなく,サーシャやターニャが暮している親しい土地になりました。

 話はかわります。自分が何をしたいのか分からずに悩んでいた高校2年生の私は,たまたま生態学の啓蒙書を何冊か読みました。なぜか感じるところが多々あり,植物生態学を勉強して環境問題にかかわろうと思いました。生態学ができる大学に行くことにして,多少は受験勉強もしました。大学に入って最初の2年間は専門の講義はなく,もっぱら教養課目ばかり。1年半ほどが過ぎたところで,これから植物生態学をやるといっても自分は植物の名前をほとんど知らないことに気がつきました。これではいけないと,本棚の植物図鑑を取り出しました。木の図鑑は2冊に分かれ,草は3巻だったので,まずは種類が少ないほうからと思い,木本編(上)を1ページずつめくりはじめました。その後下巻にまでたどりつくことはなく,草本編も手付かずのまま,大学の専門課程,そして大学院に進みました。怠け者の中途半端な努力でしたが,おかげで少しは植物の姿と名前が分かるようになりました。山に行ってもただ緑の森に見えるのではなく,ウラジロモミとダケカンバの林に見えたり,スギの植林に見えたりするし,沖縄では関東地方でみかけない植物がたくさん生えていているのに気がついて,「君の名は?」と問えるようになりました。

 さらに話はかわります。人間のさまざまな活動のため,過去とは桁違いのスピードで生物が絶滅しています。これではいけない,国際的に協調して生物の多様性を守ろう,ということで国際条約ができましたし,日本でも生物多様性国家戦略というものが作られました。とはいえ,なんでもかんでも保全するわけにはいかないのだから生物の種の何パーセントが絶滅すると困るのか,何パーセントの絶滅までなら許容できるか定量的に示せ,といった指摘を受けることがあります。たしかに,すべてを今のまま残すというのは現実的ではなく,費用対効果を考えることも必要でしょう。けれども,絶滅種数の許容範囲を示せというとらえ方はしっくりきません。

 なにがひっかかるのか考えてみたところ,生物の種の減少が,たとえば成層圏のオゾン濃度の減少と同じようにとらえられているような気がして,そこがしっくりこないのです。オゾン分子には,同位体による質量のちがいなどはありますが,酸素原子が3つ集まったものであることは今も昔も変わりありません。いっぽう,生物は一個体ごとに個性があるし,ひとつの種が絶滅したら同じものは再生できません。だから生物のほうがオゾンより偉いぞ,と言いたいわけではありません。全部の生物をひとまとめにして,何パーセント減ると影響がどれだけ,という議論のしかたになじまないということです。

 私は,6年間シベリアに通ったおかげで,ロシアの人を世間的なイメージでひとくくりにするのではなく,サーシャにターニャにセルゲイさん,それぞれ名前と個性を持った人達を思い出します。生物も,人間が勝手につけたものではあるけれど名前があり,個性があります。もちろん,個々の例にこだわるばかりでは一般性は見えてきません。けれども,個別の例を踏まえてこそ一般論を組み立てることができます。生物の具体的なイメージを持てないままに「豊かな自然」「緑の大地」のような言葉をもてあそんでも,自然は見えてきません。

 今年の4月,生物圏環境領域長という任を拝命しました。5年の任期のあいだに,領域全体での個別と一般のバランスのとり方に道を見つけたいと考えています。

(たけなか あきお,生物圏環境研究領域長)

執筆者プロフィール:

2001年の4月から3年間,本ニュースの編集委員会の委員長をつとめました。委員長になってまず最初に,巻頭言+執筆者の顔写真という表紙をやめて,記事に関係ある写真や図を載せる今のスタイルに変えました。そのおかげで,本号の巻頭に自分の顔をさらさずに済みました。情けは人のためならず。ちょっと違いますが。