研究ノート
リチウムイオンの付加反応を利用したマススペクトロメトリーに関する研究
Mikhail Kareev, P.Christopher Selvin, Michel Sablier
ダイオキシンや地球温暖化ガスのモニタリング,あるいはタバコに含まれる化学物質のリスク評価やシックハウス症候群対策といった種々の環境・健康に関する問題の研究には微量化学物質の分析が必要である。とりわけフリーラジカルは生体に悪影響を及ぼす化学種として近年最も注目を集めている物質の一つであるが,反応性が高く不安定であるため検出・定量が困難である。
質量分析計は,微量分析におけるもっとも重要な機器の1つとして広範に使われている。質量分析を行うには測定対象をイオン化することが必要であり,いくつかの方法が実用化されてきた。そのうち,電子衝撃イオン化法(EI )は最も広く用いられているイオン化法である。この方法では,電子を衝突させることによって試料に含まれる化合物のイオン化を行うが,イオン化に用いられるエネルギーが一般的な化合物のイオン化エネルギーよりずっと大きいため,余剰エネルギーによる試料中の化合物の分解(クラッキング)が発生する。分解産物として生じたフラグメントは,他の成分化合物の分子イオンピークとオーバーラップを起こすため,スペクトルの解釈において,個々のピークの同定・定量を著しく困難にする。
一方,アルカリ金属イオンが気相中あるいは高速粒子と固相との相互作用の場において種々の化学種に付加(アタッチメント)することを利用したイオン化法があり,これまでにいくつかの報告があるが,これらはあくまで反応そのものの研究に重点が置かれており,実際に質量分析法に応用するために必要な絶対感度の追求や装置の最適化といったテーマについては研究されていなかった。
そこで,化学環境部上席研究官の藤井はイオンの付加反応を利用したイオン化法に基づく質量分析法の開発に挑み,リチウムイオン付加質量分析法(Li + Ion Attachment Mass Spectrometry )を確立した。リチウムイオン付加に伴う余剰エネルギーは,分子の結合エネルギーよりはるかに小さいため,標的となる化合物の分解を起こさない。このため,EI よりも「Soft 」に分子をイオン化することが可能であり,ラジカル種のような不安定な化合物の検出・定量をも可能にする。 このことから,(1)標的化合物を破壊することなく測定が可能であり,クラッキングが起こらないため,得られたマススペクトルの解析が容易である(2)フリーラジカルのような不安定な化合物を,それが低濃度であってもリアルタイムに計測できる,という際立った長所を持つ。図1に,実用化されたリチウムイオン付加質量分析計の構成を,図2にこれによるパーフルオロシクロブタン(c −C4F8)の測定例を示す。
図1 リチウムイオン付加質量分析計の構造. 試料の化学種(M )は,反応室において,エミッターから放出されたリチウムイオンの付加によってイオン化される(M +Li+→ MLi+)。 付加イオンはアパチャーおよびスキマーを通過してレンズ室に入り,さらに輸送されて四重極質量分析計(QMS )によって検出される。 TMP :ターボ分子ポンプ, RP :ロータリーポンプ。
図2 パーフルオロシクロブタン(c −C4F8)のリチウムイオン付加質量分析法によるマススペクトル 観測されるピークは,リチウムイオンが付加した分子のイオンのみであり,フラグメントのイオンはまったく見られない(図2A )。一方,バックグラウンドのスペクトルは図2B のようになる。データは示さないが,従来の電子衝撃型イオン化法で測定した場合は,C 2F 4+ ,C 3F 5+ やCF + などのフラグメントイオンのみが検出され,c-C 4F 8の分子イオンピークは観測されない。
現在我々はこの質量分析計を用いて,多くのテーマに取り組んでいる。カリエフは,CH 4/H 2の放電によるダイアモンド薄膜の形成過程の研究において,薄膜生成のプレカーサ化合種として,原子状炭素Cとともに,C2,C2H2,C2H3等を初めて検出・確認した。また,C2H2/N2系のマイクロ波放電による生成物分析においては,フリーラジカルとともに,多くの珍しい化学種(例えばC3N4等)が同定できた。セルビンは,トリクロロエチレン等の化学物質の放電による無毒化(分解)方法の研究を,今年8月来日したサブリエは,環境中のラジカルにかかわる研究に興味を持ち,ポリエチレン燃焼中の排出成分あるいはタバコの煙に含まれる不安定活性種の検出を計画している。
(翻訳:岩瀬 啓一郎)
執筆者プロフィール: Mikhail Kareev (Arifov Institute of Electronics, Russia):ウズベキスタン,タシケントからのSTA フェロー, 1998年11月来日,来日中に一女を授かる。
P. Christopher Selvin (N.G.M. College, India):インド,コインバツールからのSTA フェロー, 2000年5月来日,N. G. M. College の講師。
Michel Sablier (University of Paris 6, France):フランス,パリからのJSPS フォロー, 2000年8月来日,パリ大学に在籍する,CNRS の研究官。
