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メコン河で魚の研究

【調査研究日誌】

福島 路生

 メコン河はインドシナ半島6ヵ国を流れる国際河川で,その流域面積は日本の国土の約2倍あります。筆者はこれまでに9回ほどメコン流域を訪れ,主に中流域にあたるラオス,タイ,カンボジアのメコン本流ならびに支流の魚類相の把握,特に魚種ごとの回遊生態の解明を目的とした調査を行ってきました。メコン中下流域に暮らす数千万人の人々の動物性タンパク質の80%が淡水魚類でまかなわれているという試算もあるくらい,この川の淡水魚は重要な食料資源です。それと同時に,生息する魚類の種数は1200を超えるともいわれ,その極めて高い種の多様性が地球に残された貴重な財産でもあります。ところが,経済発展の著しい中国,タイやベトナムは,自国内あるいは隣接するラオスなどに次々と大型の発電用ダムを計画し,そのいくつかはすでに着工され,メコンの流れをまるで階段のような不自然な流れに変えようとしています。

 急速に進展するダム開発の裏には,まったく解決のめどが立たない差し迫った問題があります。それは流域に住む人々の食料が,ダム建設によって著しく減少するのではないかという問題です。実はメコンの淡水魚,とくに水産資源として漁獲の対象となる淡水魚のほとんどが,少なからず回遊する生活を送っています。種によっては数百kmもの回遊を行うことで産卵し,子孫を残すものもいます。つまり,ダムで回遊経路が分断された回遊魚がメコンで生き延びる道が残されるかどうかが問題であり,それが流域住民の食糧問題に直結するわけです。

 さて,研究日誌ですのでメコンでの現地調査の様子を少しお話ししましょう。

 まだ夜も明けぬ朝早く,托鉢する僧侶の行列が町を歩き始めるよりも前,村の市場に行き,地元でとれた淡水魚を買い付けることが朝一番の仕事です。そしてこれが調査の中で一番の楽しみでもあります。路地に沿って所狭しと広げられた茣蓙(ござ)の上に,新鮮な野菜,肉,魚が盛られ,それを売りさばく元気一杯な女性,値切り交渉に余念がない買い物客,彼らに暖かい朝食を用意する露店など,朝の市場は活気にあふれています。日本では決して目にしない食材,例えば各種昆虫類からコウモリ,生きたままのリスやオオトカゲなどに遭遇し,初めのころは仰天することもありましたが,だいぶ目も慣れてきました。

市場の魚売り場
市場で売られていたオオトカゲ

 大量に買い付けた魚は宿に持ち帰り,種を同定し魚体を計測後,頭から耳石と呼ばれる小さな骨を取り出し,それぞれ容器に入れて大切に保管します。これは時には夜暗くなるまで続けますが,「瞑想の時間」と,先日いつも一緒に仕事をしているタイ人の研究者が言いました。種によっては1mmにも満たない耳石を肉眼で摘出する作業は,確かに相当な集中力と根気を必要とします。この耳石の中にこそ,魚種ごとの回遊経路を知る貴重な手掛かりが隠されていると考えているので,楽しい瞑想でもあります。すでに淡水魚100種以上,約1500個体分の耳石を収集してきました。

耳石を取るため魚の頭部を包丁で落とす
作業に見入る現地の人々(カンボジア)
ホテル裏で耳石採集をする筆者の周りに興味津々と集まってきた修行中の小坊主たち(ラオス)

 これら耳石サンプルを切断し,断面を研磨した後,その中心から外縁にかけて各種の元素を化学的に分析することで,メコン河の回遊魚の生態を解明することがこの研究の第一段階です。そしてその結果を計画中のダムの漁業資源へのリスク評価,より影響の少ないダム建設サイトの提案などへ役立てることが研究の最終ゴールになります。ただし,のんびりとはしていられません。こうしている間にも,新たなダムが計画され,建設されているからです。日本に住んでいるとあまり実感できない環境問題かもしれませんが,現地を訪れるたびに事態の深刻さを感じます。問題の大きさとは裏腹に,それに取り組む自然科学系の研究者の数が決して多くないことにも危機感を覚えます。人があまり目を向けない環境問題を見つけ出しては,その解決に専念することが自分のこれまでの研究スタイルでもあるので,今のメコンでのプロジェクトはある意味,天職なのかもしれません。

(ふくしま みちお,アジア自然共生研究グループ
流域生態系研究室主任研究員)

執筆者プロフィール

 アラスカ,ロシア,北海道ともっぱら寒い地方を研究の対象にしていた自分が,東南アジアに通うようになるとは予想していませんでした。でも昔の日本を思わせるような生活習慣や文化に,なんとも言えない居心地の良さをメコンの国々に感じるようにもなってきました。