温室効果ガス(GHG)の地球規模での分布や人間活動による排出量を、大気観測の結果に基づいて正確に把握することは、地球環境の将来予測や排出削減対策の評価のためには不可欠です。私たちはレーザー分光計の特質を活かして、外航貨物船の協力により移動体による広域大気観測に取り組み、GHGの詳細な変動を捉えることに成功しました。
船舶を用いた広域大気観測
国立環境研究所では、トヨフジ海運(株)ならびに鹿児島船舶(株)の協力を得て、北米(日本—アメリカ/カナダ)、オセアニア(日本—オーストラリア/ニュージーランド)および東南アジア(日本—東南アジア諸国)の3つの航路において、長期に渡って定期の外航貨物船を用いた大気微量成分を観測してきました。このような太平洋の広域をカバーする船舶を用いた大気観測は世界でも類を見ないものであり、地球規模でのGHGの分布や発生・消滅量を正確に把握することに大きな貢献をしています。
近年、東南アジア諸国はめざましい経済発展を遂げており、これに伴ってGHGの排出量も増えています。ところが、東南アジア域では系統的なGHGの観測がほとんど実施されておらず、観測の空白地帯となっています。定期的に広域を航行する船舶による観測は、陸域の各地に定点観測の拠点を多数展開するよりも、コストや労力を削減できるうえに、GHGの広域分布を理解するために効率的かつ有効であるという大きなメリットがあります。
CRDSの導入で捉えた変動
赤外レーザー吸収分光法の一種である、キャビティーリングダウン分光分析計(Cavity ring-down spectrometer:CRDS)の導入は、前記のような問題を解決し、CO2のみならず、CH
4についても船上での連続観測を可能にしました。私たちは、まず東南アジア航路、続いてオセアニア航路の船舶にCRDSを搭載し、観測を始めました(図1)。
図1 定期貨物船によって大気観測を実施している東南アジアとオセアニアの航路図(左)と船上でのキャビティーリングダウン分光分析計で観測したメタンの緯度分布(右)。
ジャカルタから船は2つの航路(オレンジと赤の実線)のどちらかを航行して日本に帰港します。右図に示したメタン(CH4)濃度の緯度分布は、東南アジアおよびオセアニア航路の両航路で2009年の10月に観測した結果を左図の各航路に対応する色で示しています。オセアニア航路では、船が清浄な外洋域を航行するために、オーストラリアやニュージーランドの沿岸部以外ではCH4濃度の変動は比較的小さいことがわかります。これに対し、東南アジア航路では、船が沿岸部を航行するため、風向きによっては陸上発生源の影響を受けた空気塊を観測することになります。図に示した10月は、東南アジア域では北東の風が強く、中国の南岸やフィリピン、ボルネオ島の西岸、タイランド湾などで陸上発生源の影響が強くなり、CH4が大きな変動を示していることがわかります。
アジアはモンスーン(季節風)により卓越風(ある場所で、年間を通じ最も多く吹く風)の向きが大きく変化する地域です。北半球の夏季には、東南アジア沿岸諸国から排出されたGHGが、南半球のオーストラリア東岸沖を起源とする空気塊に乗って、南西風として環南シナ海域(ベトナムやフィリピン沿岸)に流れ込みます。一方、北半球の冬季には、東アジア域から排出されたGHGが北東アジアを起源とする空気塊に乗って、東シナ海を経由して海上を長距離輸送されて、北東風として流れ込みます。この長距離の輸送で、空気塊中のGHGの濃度は均質化されるため、冬季に観測される濃度には短期的な変動はほとんどないだろうと予想されていました。ところが、予想に反してCRDSによる観測では、夏季よりもむしろ冬季に、短期的かつ顕著なCH
4の濃度増大(ピーク)を高頻度で捉えていたのです(図2)。
図2 東南アジア航路の北半球熱帯域(EQ-10N)において観測したCH4の緯度分布の例
東南アジア航路でCRDSによって観測したCH4の濃度を、図1の航路に対応した色で1分平均値(薄い色の丸)、1時間平均値(濃い色の実線)で示しました。フラスコ観測の結果は黒のアスタリスクで示しています。1分平均値のデータは、短時間で大きく変動するCH4の濃度増大を明白に捉えています。これに対し、フラスコ観測の結果では、CH4の変動はほとんど捉えていません。1時間平均値についても、完全には変動を捉えきれておらず、いくつかのCH4のピークは、はっきりとは認識するのが難しくなっています。これらの結果は、実際の大気中で起こっているCH4をはじめとするGHGの変動を、デジタルの数値で、より正確に記録(観測)するには、高い精度と時間分解能に優れた装置を用いて観測することが重要であることを示しています。
観測されたCH4のピークは全て持続時間が短く、わずか数分から1時間程度でしたが、一つ一つのピークの強度が強いものでした。また、ピークが観測された位置が2つのエリア(マレー半島の東岸沖とボルネオ北西沿岸部)に集中していたため、CH4の発生源はこれらのエリアの近く、しかも洋上域に存在していると示唆されました。さらに人工衛星による夜間光の観測結果を合わせてその発生源が洋上の油井・ガス井であると特定しました。また、東南アジアでは、洋上油井・ガス井に関する「GHGの排出インベントリ(どこから どのような大気汚染物質がどれだけ 排出されているのかを示す目録)」には大きな不確かさがあることを示し、洋上の油井・ガス井からのCH4の排出は東南アジア全体の人為的な発生源の0.2%を占めていると推算しました。
これらの結果によって、船舶のような移動体においてCRDSによる観測の有効性が示されました。この他にもエルニーニョが観測される年に発生する、インドネシアの大規模森林・泥炭火災による影響を捉えるなど、CRDSならではの成果が得られています。