気候変動への対策を考えるときには、100年先くらいの、まだ生まれていない将来世代のことも思いやることが大切だと思います。しかし、それは簡単なことではありません。社会心理学の研究をヒントに、その理由や対策を考えてみました。

気候変動への対策を考えるときには、100年先くらいの、まだ生まれていない将来世代のことも思いやることが大切だと思います。しかし、それは簡単なことではありません。社会心理学の研究をヒントに、その理由や対策を考えてみました。
まだ生まれてもいない100年先の将来に生きる人のために、何かをしようと思ったことはありますか?正直、私は「子供たちの将来のために…」と思うことはあっても、100年先の将来世代に思いをはせることはありません。しかし、気候変動による干ばつ、洪水、熱波などが自然環境や社会にもたらすさまざまな悪影響を緩和・回避するためには、20~30年先だけではなく、「100年先の人への思いやり」が必要になると思っています。
無駄に電気がついていたら「100年先の人のために!」と考えて電気を消しましょう、ということではありません。そこは、電気代がもったいないから電気を消す、で良いと思います。ただ、社会としての決め事に対して関わる投票や市民委員としての参画、デモへの参加などでは、将来世代のことも考える必要があるのではないか、ということです。例えば、こまめに電気を消すことを促す(あるいは、消さないと何かしらの不利益を被る)ルールへの賛否を一市民として表明するような場面です。
国連の気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change, 通称IPCC)は、人間活動に起因する気候変動の影響は、現世代で十分な対策をとらない限り、より深刻化していくと警告しています。私たちがいなくなった後の時代に生きる人々がとても大きな影響を受けるということですし、その影響はもっと先の時代まで続くことだってあり得ます。
将来世代のための気候変動対策が、自分たちにとっても快いもので、その恩恵を受けられるものであれば反対する人はあまりいないでしょう。しかし、将来の人々のためにはなるけれども、自分自身にとってはストレスとなるような対策も求められます。この場合、将来世代のために私たちが我慢する、という構図になるのです。
このように、環境を破壊して利益を得る立場と、環境破壊からの被害者となる立場が分かれていて、両者の間に対立が生じるような状況を「社会的コンフリクト(対立)」と呼ぶことがあります(野波, 2008)。一般的に、社会的コンフリクトの解消には利益を受ける側と被害を受ける側の間で、問題解決の責任と義務に関する話し合いと合意が求められます。しかし、現世代とまだ生まれていない将来世代では、問題解決に向けた話し合いはできません。
他の人が困っているときに、自分が多少のコスト(我慢)を負ってでも手助けをすることを「利他的行動」と言いますが、将来世代と直接話し合えないのであれば、現世代が将来世代に思いをはせながら利他的(利「将来世代」的)行動をとれるかどうかがポイントになるでしょう。
困っている人がいたら助けてあげるのは、「当たり前」のことだと考える人が多いと思います。一方で、気候変動の影響がすでに出ているのになかなか対策が進まない現状を鑑みると、「将来世代のために」何かをしようとするのは難しいことなのだろうと素朴に思います。そこで、将来世代のために何かをしようと「思う/思わない」のはなぜか、考えてみたいと思います。
人はなぜ、利他的行動をとるのでしょうか。社会心理学の分野では、いくつかの説明があります。一つは、助ける相手の立場に立った時に、その相手に対する同情の気持ち(empathetic concern)が起こるからと考える説明です。かわいそうだから助ける、という説明はシンプルで納得できます。
他にも、自分と相手を重ねるから助ける、困っている人を見ると、悲しいなど精神的なストレスを覚えてそれを解消するために助ける、お返しを期待して助ける(情けは人の為ならず)、等の説明もあります。いずれの説明も、目の前で困っている人がいる状況を想像すると納得できます。しかし、目の前にいない、それどころかまだ生まれてもいない人に対して、利他的行動をとることはできるのでしょうか。
「心理的距離」(psychological distance)という考え方があります。これは、LibermanとTropeが提案した考え方で、空間的(ここ-どこか遠い場所)、時間的(今-遠い過去や将来)、社会的(私-他の人々)、仮説的(ある-あるかも知れない)の四つの次元からなる心理的な距離感のことです(Liberman and Trope, 2008)。これら四つの次元はお互いに関係しており、例えば遠くにある物については、近い将来ではなく遠い将来のことと同じように考えがちであるということが知られています。また、心理的距離が遠い対象については、頭の中で抽象的に捉え、その本質的な価値に着目して判断や行動をとる、と言われています。
例えば、来年は旅行に行こうと決めるときには、海に行きたいか山に行きたいか、のんびりするかアクティブに過ごすかを考えます。今週末に行く旅行について決めるときには、「あそこは朝食においしいフレンチトーストが食べられる」など、行き先のより具体的な特徴に着目するということです。
この理論を、将来世代に当てはめてみます。100年先の、まだ生まれていない人々というのは、時間的にも、社会的にも、仮説的にも、心理的距離を遠く感じると思います。そして、心理的距離が遠い対象なので、具体的な人物像ではなく、ぼんやりと、自分と同じような生き物としての特徴を持つ人間を想像する、という理解ができます。そのような対象に同情したり、自分と重ね合わせたりして思いやることは、確かに難しいです。
心理的距離を超え、将来世代のために行動することはできないのでしょうか。具体的な誰かの物語として将来世代が困るということを見せたり、相手の立場に立って考えてもらったりすることで、将来世代のための行動を促せるかもしれません。
これは、PahlとBauerの心理実験研究(Pahl and Bauer, 2013)の成果から考えたことです。この実験では、2105年という未来に生きる人が、環境破壊によって自分たちが被害を受けている様子を画像を見せながら語る、という設定で、それを見た被験者たちが環境保全に向けた行動をどの程度とるかを測っています。その結果、相手の立場に立って考えるように言われた上で、2105年に生きる人の語りを見た人々は、そうでない人に比べて環境保全に向けた行動を多くとったというのです。
かわいそうと同情するのは、同情する相手に向けた感情や認識です。そうではなく、自分の内なる声としての個人的な規範意識である「私はこうあるべきだ!」という考えに着目して利他的行動を説明する研究者もいます。Schwartzは、個人的な規範意識が利他的行動を促し、その背景には、対象者が困っているという認識と、その困っている状況を自分であれば助けられるという認識があると説明しています(Schwartz, 1977)。
これらの説明を参考にすれば、将来世代の人々が実際に困ることを具体的に見せることで、将来世代のための行動を促せそうです。これに加えて、今の自分たちの行動によって気候変動の影響を緩和できると示すことも効果的だと考えられます。
このとき、注意すべきポイントが一つあります。具体的な誰かの物語として将来世代が困ることを見せるときに、統計データも併せて提示すると、思いやりの行動をとる人が減ってしまうかもしれないということです。個人的な物語だけを見せた場合と、個人的な物語と統計データをセットで見せた場合で、その人を助けるために寄付する金額を比較した実験では、後者のほうが低い金額となることが知られているのです(Smallら, 2007)。
人の思考や判断には、情緒や感情による反射的なものと分析による熟考的なものがあると考えられています。Smallらは、統計データを見ることによって頭が「熟考モード」になり、感情の効果が抑制されて、寄付額が減るのではと考察しています。心理的距離の話を踏まえると、統計データを見ることで個人的な物語を「遠く」に感じてしまうのかもしれません。気候変動について考えるときには統計データを見て「熟考」することも重要なので、将来世代への思いやりを促しつつ冷静で論理的な判断を促すことは簡単ではないと思わされます。
先人たちの研究を見る限り、何もしなければ、将来世代を思いやって気候変動対策を進める行動をとることは期待できなさそうです。しかし、100年先を生きる人が困ってしまう状況や、気候変動対策を行うことによる明るい未来を具体的に描いて広く届けることで、将来世代を思いやる雰囲気が社会全体として高まっていけば、可能性はあるかもしれません。まだまだ根拠が十分ではない「仮説」に過ぎませんので、研究を通じてデータで確かめているところです。
実際に気候変動を緩和していくには、個々人の行動を変えることと、強制力のある社会の仕組みを導入することの両方が必要だと思います。そして、それらの根底には一人一人の思いや考え方があるはずです。100年先への思いやりだけで世界が変わるとは言いませんが、思いを伴った対策こそが必要だと信じて、研究を頑張っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。ご意見などをからお寄せ下さい。
今回の執筆者から皆様への質問:100年先の将来世代を想像した時に、誰、あるいはどのような人を思い浮かべますか?