1. はじめに
気候変動対策の分野では近年「気候変動適応策」や略して「適応策」のように、「適応」という用語が頻繁に使われるようになりましたが、「適応」とは、“○○に適応する”というように、私たちが日常的に使う言葉です。国語辞書を参照してみると、“ある状況に合うようになること”、“状況に合うように行動や考え方などを変えること”のように、人間が意識する・しないにかかわらず、新たな状況に合うようになるという意味が挙げられています。また「適応」は生物学でも一般的な用語で、“生存のために環境に対応できるように生物の何らかの特性が変化すること”のような意味が書かれています。人間の適応と生物学用語の適応の意味は近く見えますが、人間について言う場合はある個人など一世代内の適応が中心である一方、生物学用語では一個体が新たな状況に適応する場合だけでなく、世代を超えた適応についても重視されます。ここでは生物の適応について、気候変動影響を中心に考えていきたいと思います。また生物にかかわる気候変動適応策との関係性についても紹介します。
2. 温度への生物の適応
生物はもともと、住んでいる場所・環境条件で生きていくのに向いている性質をもっています。たとえばセミやカブトムシは温暖な季節にだけ成虫が現れて、寒い季節を姿形の違う幼虫として土の中で暮らします。このような性質は生物が長い進化の歴史を経て、住む環境に合うように適応してきた結果と考えられます。もっとも、適応できずに絶滅した生物も数多くおり、現在生き長らえている生物は、長い地球上の気候変動の歴史に適応するように進化した生物の子孫です。進化は必ずしも気候変動に関係しているとは限りませんが、気候変動に合うようにするための適応の一つの形とも言えるでしょう。
一方、進化ほど長い世代交代を経なくとも、一個体の生涯の間でも環境に合うように変化することもあります。水槽で飼っている魚は緩やかに水温を上げていくと、ある程度の高水温ならば耐えられるようになる場合があります。このように環境変化に合うような世代内での変化を「順応」と呼びます。順応できる変化には限度があり、水槽の魚の例でいえば、急激に水温を変化させると死んでしまうことでしょう。この「順応」と先ほどの「進化」は一見すると似ているのですが、大きな違いとして、進化は世代をまたいで遺伝子レベルで生じた変化です。順応は一世代内の環境への可塑性の範囲内の変化のことであり、発現する遺伝子が違ってくることはあっても遺伝子自体には変化が起きていません。
3.分布の移動:気候変動に対するもう一つの生物の適応
気候変動に伴う生物の変化の現れ方の一つとして、従来そこに住んでいた生物が生きづらくなったり、その一方で新たな生物が見られるという現象があります。また、サンゴのように白化で生息地が減少している生物が、より北の地域では増加しているといった、同じ生物がある地域では減少し、また別の地域では増加するといった、二面的な変化も見られます。これも気候変動に合うための生物の「適応」の一つと言えそうですが、これらはいったいどのような変化なのか整理してみましょう。
ある生物の分布している範囲が、その生物が生存可能な温度の範囲によって制限されているとすると、気候が温暖化した場合には、従来からの分布範囲には住みづらくなります。北半球ではとくに分布範囲の南限近くの地域集団は消滅に向かい、分布の南限が北へと縮むと考えられます。一方、分布の北限付近のさらに北側でその生物が生存可能な温度になった場合、従来の分布の北側へと新たに移動した個体が定着し始め、分布範囲が従来の北限のより北側へと拡大することでしょう。すると全体として分布範囲はより涼しい方へと平行移動することになります。なお、南半球では分布の移動方向の南北が逆転します。これらの現象についてサンゴを例にとって説明してみます。国内の亜熱帯域の沿岸ではサンゴを中心とした「サンゴ礁生態系」が広がっていますが、20世紀末頃から世界中の熱帯・亜熱帯域において大規模なサンゴ白化が繰り返されるようになりました。一方、温帯域でも九州・四国から伊豆半島、房総半島は、黒潮や対馬暖流といった高水温の海流の流域に面していますが、これらの地域では従来は数少なかったサンゴが増えてきたり、新たに熱帯性のサンゴが見つかるようになってきました。
ただし、気候変動に伴う生物の実際の分布変化は、必ずしも先ほどのような模式的な変化にはなりません。例えば、移動能力の小さい生物では新たな移住ができずに南限の生息地が失われ分布範囲が縮小するのみの場合があります。逆に温暖化しても分布南限が変わらずに、北へとどんどん分布範囲が拡大するような場合、また分布範囲全体がほとんど変化しない場合も少なくありません。さらには、元々の生息範囲よりも暑い地域へと分布を拡げてしまう種もあるなど、生物の分布範囲と生息可能な温度範囲の関係は複雑な場合があります。加えて、気候変動影響を強く受ける生物との関係が強い場合には、生物の気候変動の影響の現れ方はより複雑になります。サンゴの例で言えば、サンゴとサンゴの体内に共生する褐色の藻類とでは温度耐性が異なっており、サンゴよりも共生藻類の方が高水温に弱いです。このため、高水温にさらされたときにはサンゴよりも共生藻類が先に減少します。すると共生藻類の褐色が抜けて、白いサンゴ骨格の色が表に露出した、いわゆる“白化”の状態になります。高水温の状態が短時間で終われば共生藻類が戻りサンゴは元気を取り戻し生存しますが、高水温状態が長期にわたると次第にサンゴは死に至ります。サンゴ礁生態系は豊かな生物多様性を育んでいるので、生態系の基盤となるサンゴが広範囲で死んだ場合には数多くの生物が住み処を失うという大きな影響を受けることになります。
4. 生物の適応の限界と気候変動適応策
ここまでみてきたように気候変動に対する生物の反応や適応は様々ですが、多くの生物にとって現在の人為的気候変動の速度は急すぎて、それについていけなくなり始めています。そういうと不思議に思われるかもしれません。現生の生物たちは長い時間をかけて地球上の気候変動とともに進化し生き長らえてきた生物の子孫です。長い生物の進化史上には現在よりも暑い時代もありました。それではなぜ現在の気候変動が問題なのでしょうか。現代のいわゆる「気候変動」とは、人類の社会活動で排出された温室効果ガスの影響による数十~200年程度のスケールのものです。これは地球上の生物が経験してきた地質年代の気候変動とは区別して考えられています。つまり現在の気候変動は「人為的気候変動」であり、その影響の大きさから地球史上の地質年代に匹敵する「人新世」という呼ばれ方もあります。生物にとっての現在の人為的気候変動の問題は、その変動の速さがいまだかつてないほどのものであることです。
生物が本来持っている適応能力だけでは気候変動に適応できなくなっているならば、それらの生物を保全するためには何らかの人の手を加えてやる必要があります。気候変動適応策として生物を対象として実施・検討されている方法には、人の手を加えることで生物の高温への適応能力の向上や生息環境の改善などを行うものが多く見られます。例えば、サンゴで試みられている高温耐性系統の選抜養殖などは生物本来の高温への適応能力を人の手で補う適応です。また、野生生物を現在の生息地の外側へ移植するアイデアは、気候変動に伴う分布移動を人の手で補う適応と言えるでしょう。しかし、直接的に気候変動影響を抑えることは難しいため、それ以外の地域的な負荷要因を抑えることも重要な気候変動適応策になります。例えば、天敵のコントロールや環境破壊・汚染を抑えることは地域的に現実味のある対策として重要です。気候変動影響下において生物・生態系を保全するためには、生物本来の適応能力を踏まえつつ、広域的な気候変動の抑制に加え、地域で気候変動適応策に取り組んでいくことが必要です。