2026/06/048分で読めます
私たちは日々の生活のなかで、さまざまな化学物質を体内に取り込んでいます。こうした物質の中には、体の中で小さな分子レベルの変化を引き起こし、それが細胞や臓器レベルの変化へと連鎖することで、最終的に健康に有害な影響を及ぼすものもあります。このように、初期の分子レベルの変化が最終的な有害影響(Adverse Outcome:AO)につながる一連の流れを整理する枠組みは 「Adverse Outcome Pathway(AOP)」と呼ばれ、化学物質の影響を理解し、その安全性を評価する上での中心的な考え方として広く使われています。
近年では、動物実験によらず、細胞を用いた試験や計算科学などを活用する新しい解析手法 (New Approach Methodologies:NAMs)が発展し、AOPの入口にあたる分子や細胞レベルの変化は、より詳しく捉えられるようになってきました。しかし、これらの変化がヒトの体という複雑なシステムの中で、最終的にどのような健康影響として現れるのかについては、いまだ多くの謎が残されています。特に私の研究対象である神経・ 精神機能については、分子レベルの変化がどのような心の症状や行動の変化として現れるのか、その全体像を描き出すことは依然として困難です。
精神医学の分野では、発達障害や統合失調症などの精神の病気の発症には、「遺伝」と「環境」の両方が関わることが広く認識されています。環境健康科学の分野でも、環境中の化学物質へのばく露が、こうした病気の発症に関与する可能性が示唆されてきました。しかし、これまでの知見はいまだ断片的で、AOPが想定する「分子から個体へのつながり」を、神経・精神機能について一貫して説明することは依然として困難です。実験室で観測された分子レベルの現象と、実際にヒトでみられる行動の変化といった症状との関係が、どのようにつながるのかが、十分に明らかにされていないのです。この「分子から行動へのつながりの不明確さ」が、化学物質の神経・精神機能へのリスクを理解する上での大きな課題となっています。
その背景には、発達障害や精神の病気の診断が、主に「行動の特徴」に基づいているという事情があります。例えば、生活習慣病やがん、感染症などは、血液や尿、唾液などの体液中の成分(タンパク質や核酸など)の種類や量の変化を指標として、病気の有無や進行状況を定量的に評価することができます。一方で、多くの神経・精神の病気では、このような生物学的な指標(バイオマーカー)が十分に整備されていないため、分子レベルの知見と、診断のもとになる症状との関係を結びつけることが難しいのです。
このような状況では、細胞を用いた試験などのNAMsから得られる分子レベルの情報のみでは、化学物質の神経・精神機能への影響を十分に評価することには限界があります。この課題を克服するためには、最終的な有害影響(AO)として現れる「行動の変化」を的確に捉え、それを分子レベルの情報と結びつけて理解することが重要となります。私は、この課題に対して、以下の二つのアプローチから取り組んでいます。
私は、前職では発達障害の治療薬開発に関わり、薬剤(化学物質)が神経・精神機能にどのように作用するのかを調べる研究に取り組んできました。具体的には、行動を多角的かつ定量的に測定し、それを血中分子の特徴や脳活動の変化など、体の中で起きている変化とあわせて理解するアプローチを進めてきました(Ref 1,2)。この経験から、神経・精神機能への影響を評価する上では、まず個体レベルで現れる行動の変化を正確に捉えることが出発点であり、それを体の中の変化と結びつけて理解することが重要であると考えています。
現在は、この考え方を化学物質のリスク評価に応用し、研究に用いる生物の行動を、日常生活のなかで継続的にモニタリングする手法の開発を進めています。神経・精神機能の異常は、特定の時間帯や環境、社会的文脈に応じて顕在化することが多く、古典的に行われてきた限られた条件下での短時間の観察だけでは、その実態を十分に把握できません。
そこで、無線タグ技術や各種センサ類、カメラ等を組み合わせたシステムを用い、日常生活環境のなかでの行動や体の状態に関する情報を、長期間にわたって全自動で収集し、解析しています(図1、Ref 3–5)。この手法により、従来の方法では見逃されがちだった「わずかな行動のゆらぎ」や「状況依存的な変化」を定量的に捉えることが可能になります。実際に、この手法をメチル水銀の長期的な影響を調べる研究に応用したところ、従来の手法では検出が難しかった微細な運動機能や認知機能への影響を見出しつつあります(Ref 6)。このようにして得られる行動データは、AOPにおける最終段階である有害影響(AO) をより実態に即して評価し、分子レベルの変化と結びつけるための重要な基盤になると考えています。
行動を精密に測定できるようになると、その背景にある「体の中の変化」をより正しく読み解くことが可能になります。分子レベルの変化と最終的な有害影響(AO)である行動とを結びつけるため、私は血液などの体液に含まれる成分のなかから、行動の変化と連動して動く「バイオマーカー」の探索に取り組んでいます。
これまでに、浜松医科大学との共同研究において、発達障害の症状が薬剤投与によって変化する際、それに伴って血中で変動する分子の特徴を見出しています(Ref 2)。この結果は、血液などの体液から得られる分子情報が、ヒトの行動や症状の変化を反映し得ることを示しています。
こうした関係をより体系的に理解するため、近年急速に発展している次世代シーケンサーなどの最新技術を活用した解析手法の開発を進めています。次世代シーケンサーは、DNAやRNAの配列情報を高速かつ大規模並列で解読し、遺伝情報を網羅的に解析できる技術です(図2)。これを用いて、血液に含まれる核酸分子の多様性や微細な分子変動を標的として、行動データと対応するバイオマーカーを探索しています。
このアプローチにより、これまで個別に捉えられてきた「行動の変化」と「分子の変化」を結びつけ、両者の関係をより多角的に理解できると考えています。最終的には、分子レベルの変化から行動への影響を予測できる基盤の構築を目指しています。
環境中の化学物質が、私たちの体の中でどのような変化を引き起こし、それが最終的にどのような心の症状や行動の変化として現れるのか。この「分子から行動までのつながり(AOP)」を解明することは、化学物質を体内に取り込むリスクを正しく理解し、適切に予防するための重要な課題です。この課題を解決するためには、医学、神経科学、分子生物学といった生物学的な知見に加え、精密な計測を行う工学や、膨大なデータを読み解く情報科学など、さまざまな分野の専門知識を組み合わせた、新しい評価基盤が不可欠です。私は、国内外の産官学の強力な連携体制のもと、行動の測定と体の中の分子変化の解析とを組み合わせることで、このつながりを捉える評価手法の構築を進めています。これにより、化学物質による神経・精神面の健康リスクを早期に把握し、未然に防ぐことにつなげることで、誰もがより安心して暮らせる社会の実現に貢献したいと考えています。