森口 本日はお集まりいただいてありがとうございます。国立環境研究所創立50周年記念誌座談会を始めます。司会進行は研究担当理事の森口が務めます。それではまず簡単な自己紹介をお願いします。いつ、NIESに来られたか、所属、お名前をごく簡単にお願いします。
滝村 企画部の滝村です。環境庁に入り国環研に来てからは通算で18年になります。
Astrid 私は地球システム領域所属です。ドイツ人です。私は5年前、ポストクでNIESにきて昨年よりテニュアトラックになりました。
白井 環境情報部(兼)地球システム領域の白井です。私は2004年7月に環境研に来ました。化学領域で採用され、地球に移り、CGERでデータベース事業に関わったことをきっかけに、昨年度から地球システム領域と環境情報部を兼務しています。
田中 企画部の田中です。2023年の4月に事務職員として入所し、4月で2年目になりました。よろしくお願いします。
長坂 連携推進部の長坂です。昨日が自分にとって国環研10周年の記念日で、今日から11年目になります。入所以来ずっと会計業務をやってるのですが、現在は外部資金室と会計課を兼務しております。
石崎 気候変動適応センターの石崎です。2018年の10月に国環研にきまして、2018年12月に気候変動適応センターができたのと同時に、そちらに移りました。今6年目ということになります。
朝山 社会システム領域の朝山です。僕は2014年に3年ほどポスドクでいて、一度外に出たんですが、また2020年の4月から任期付研究員として戻ってきました。今年で5年目です。よろしくお願いします
石濱 生物多様性領域の石濱です。2005年に環境研にきまして、それ以来ずっと生物領域にいるという面白くもない経歴です。構内緑地等管理小委員会というところで緑地管理にも関わっています。
小野寺 地域環境保全領域の小野寺です。私は2010年から国環研にいます。最初の3年間はポスドクでした。今年で15年目になります。よろしくお願いします。
関山 環境リスク・健康領域の関山と申します。着任は2018年の4月ですので、7年目に入ります。よろしくお願いいたします。
遠藤 福島地域協働研究拠点の遠藤といいます。2002年に循環センターに任期付研究員として入りましたので22年目で、2018年に福島に異動して6年目になります。
阿部 総務部総務課長の阿部です。2020年から総務課長ですが、その前はほぼ環境情報部でした。最初に来たのは1990年で、その年の4月から6月が公害研最後の3か月にあたりました。
森口 このメンバーで進めていきます。長くNIESにおられる方、最近来られた方、研究職の方、企画・支援部門の方、外国籍の方にも参加いただいて、多様な方々に集まっていただきました。私が最初につくばに来たのは1982年、当時は公務員試験を受けて研究所に就職するっていうパスがありました。創立10年に満たない頃で、上司は1974年の創立当初のメンバーで、まだ西大通りもなかったよ、といった話も聞きました。私が来た頃も公務員宿舎と研究所以外はほとんど何もなかった。昼間東京に行くと帰りの電車は1時間に一本あるかどうか。上司から侘しさを津軽海峡冬景色の替え歌で表現した筑波学園冬景色を習ったりしました。TX(つくばエクスプレス)ができて本当に隔世の感があるなと思います。記念誌では、環境研設立から50年の変遷を1年に2ページずつの年表を作りました。年表全体の編集を担当いただいた滝村さん、ご自身との関わりにも触れながら年表全体をまとめた感想、改めて感じることがあれば、お願いします。
滝村 最初に当時の環境庁に入りまして、国環研にお世話になったのは2000年からです。国環研が独立行政法人化するタイミングでしたが、実はその直前に今の環境省環境研究技術室の方で、国環研の独法化の準備をしていました。そこで1年ぐらいしてもうこれでお役ごめんかと思ったら、今度は国環研へ行けと。そういうわけで2000年から3年間、お世話になりました。それが私の1回目の国環研です。独立行政法人化しても研究所であることに違いはないけれど、法人ステータスが変わるということで、実はいろんな面で大きな変化があったように思いました。当時一番感じたのは、法人化してもやっぱり国環研が研究をしてる組織であるのはもちろんですが、それがどんな活動をしていて、どのように世の中に役に立っているか、さらにそうしたことを人々に知ってもらう努力をしているかということを、常にその説明責任を求められるというところが一番大きな変化だったように思います。実は年表では表の前半と後半と分けて作業したんですが、前半だと頼りにする資料というのも多くなく、年報や国環研ニュースを見ながら、こんなことがあったんだなと想像しながらの作業でした。後半になってくると、自分が実際に経験したこともありましたし、やっぱり多くの材料があるんですね。独法化して業務実績等報告書を毎年まとめて評価してもらうんですけども、それも年報よりは読んでいて何をやったかっていうのがわかるような資料で、そういう意味では後半の部分は結構作業としてやりやすかった面があります。そのあとは2009年にもう1度国環研にきてもう15年経つわけですけども、その間に中長期計画ですね、最初のときもそうですし、3期から5期まで携わらせてもらいました。5年ごとの流れの中で計画を作っていくというのは、もちろん研究所としてすごく大きな出来事ですし、その時代時代のいろんな皆さんの考え方が反映されて研究構成や組織が変わっていくプロセスは、自分でも記憶に残っている得難い経験です。自分にとって一番インパクトがあったのは東日本大震災でした。自分自身がそういう大きな災害に直面したとのも初めての経験だったこと、加えて東電福島第一原発事故に伴う放射性物質の拡散ということで、新しい、国環研がそれまでタッチしてこなかったような分野の研究をそこから手探りで進めていくことですね、それは非常に自分にとっても大きなことで、そのあと2016年には福島支部に行くことになって、支部の方でもそういう経験をしました。東日本大震災の後の国環研のいろんな物事の見方というのか、或いは社会との繋がりのとらえ方というのが、あれを境に大分変わってきたのかなっていうのが私の印象です。皆さんそれぞれ思いがあると思うんですけども、特に地域ですとか、コミュニティですとかそういうところで一緒に何かをやっていく発想というのが、だんだん強くなってきて、それが今にも繋がってきているのかなと、年表の作業をしながら思い起こされてきました。
森口 大事なのは幾つもの節目があった、という点かなと思います。滝村さんがこられたのは独立行政法人になる時期ですが、できたときは国立公害研究所という名前だったのが、地球環境問題などへの対応で1990年に国立環境研究所という名前になりましたが、阿部さんが来られたのってその頃ですかね。どういう時期でしたか、何か思い出とかありますか。
阿部 私が来た1990年が今まさにおっしゃられた、公害研究所から環境研究所に変わる年の4月ですから、3ヶ月だけ公害研の職員、7月から環境研というちょうどその変革の時期でした。その前の5年間、当時の環境庁の自然保護局や大気保全局におり、大気保全局のときにはちょうどオゾン層の保護対策とか或いは温暖化対策のはしりのころだったので海外旅費がまだ全然少ない時代に、元理事の西岡先生に海外に出張していただくための、いろいろ事務手続きを通じて公害研の活動の一部を知り、その後、研究所に転勤になりました。
森口 当時、まだインターネットとか、当然ないですよね。
阿部 私が来た2年後の1992年にスーパーコンピュータを研究所で初めて導入するという時期で、所内あるいは外部からもスパコンを使っていただくという話があったので、その足回りとしてインターネットにつなぐということがありました。先ほど振り返って思い出したんですが、今の研究所の中のネットワークはギガビット回線や外部との接続も10ギガの回線で繋いでますけれど、当時はいわゆるプロバイダーというようなものもほとんどないころで、いろいろ当たって東京大学のTISN(東京大学国際理学ネットワーク)に接続させてもらったのですが、64キロbpsという、今考えると糸電話のような遅い回線で利用が始まった時代でした。
森口 情報については私が入所した頃はちょうどワープロ(死語?)、パソコンがようやく入り始めた頃で、大型計算機に重い磁気テープでデータ読ませたりしていました。そうした技術の進展とともに、我々の力の及ばない事象で、大きな影響がありました。東日本大震災は大きな転機になったと思います。滝村さんは福島支部長も務められましたけども、今福島拠点におられる遠藤さん、研究所にこられた頃から、震災を経て今に至るまでのこと、お話いただけますか。
遠藤 私がきたのが2002年で、厚生省から環境省に移管されて、循環型社会形成推進・廃棄物研究センターが最初の名前だったと思いますけども、そのセンターの第1期が2001年。発足当初10数名でしたが、初年度には流動研究員10名を含む36名の体制がすぐにでき上がって、循環センターとしての研究が開始されたと聞いております。遅れて翌年に私が入りました。私自身は地盤工学という、環境とは違うところから来ましたので、入った当初は新鮮で、純粋な気持ちでやっていたということと、同年代がほとんどだったので、自由に伸び伸びと闊達に、非常に明るい雰囲気でですね、常に自由と余裕と笑顔があるような、そんないい環境が作られてたなあと思います。それ以来私は処分場ですとか不法投棄、再生利用といった研究をやってきましたけど、その多くは地方自治体や地方環境研究所と一緒に研究してきました。2011年に東日本大震災があって、災害廃棄物研究を始めたんですけれども、それまで災害廃棄物研究は循環領域としてはやってきませんでした。廃棄物のみならず、大気ですとか水質汚染もそうなんだろうと思いますけれども、2011年までに実施してきた基礎研究があったからこそ、震災対応として災害廃棄物研究をすぐに進めることができ、現在の地域協働の研究に繋げることができたと思っています。当時、震災対応ネットワークというものが作られており、メールベースで100名を超えるメンバーで構成され、その知識や経験を集めて、自治体ですとか国ですとか地域にその知見を提供するというようなことをやってきていました。放射性物質も同様でして、これまでの地下水や処分場の物質移動研究がかなり生かされてるなと思っています。
長坂 そうですね、10年前、転職してきた当時に自然がいっぱいっていうのは本当に感じてたんですが、街灯は全然無いなっていうか、自然はいっぱいなんだけど、夜道はちょっと怖かったというような印象があります。それは10年前の印象ですが、街灯でいうと、最近もそんな変わってないような気がしますね。あと当時と今を比較すると、当時引っ越そうかなって考えていたときもあったんですが、結局、引っ越さないで10年間ずっと通勤をしており、今じゃもう、地価が高くなっちゃったなあっていう感じはしています。地価の高騰だけでなく決算時期などの繁忙期には、当時買っとくんだったなと改めて感じております。今ではもう買えませんね。
森口 石崎さんはNIESにこられる前からつくばにおられたと聞いたことがありますけど、どうですか。
石崎 はい。もともと茨城の出身で、筑波山の西の方に住んでいて、筑波山の向こう側には研究学園というキラキラした世界があるというふうに憧れを持っていました。研究学園と聞いて無機質な建物がたくさん建っているようなイメージを私は持っていたんですけども、実際に筑波大学に入ってつくばで暮らすようになると、とても自然が豊かで、森の中に大学や研究所があるような状況で、宿舎にヘビやカエルが出てきたりしてすごく驚いたの覚えています。当時TXもなかったので、就職活動をするのがすごく大変でしたね。高速バスで東京に行くことが多かったですが、渋滞に巻き込まれることもあるのでひたち野うしく駅までバスで行って電車で行ったり、大変だったなという記憶があります。TXもできて便利になったし、最近はいろいろなところで木が切られて整備されたので、見通しも良くなったんですけどちょっと寂しくもあるかなというところです。
森口 いろんな研究機関を経験されてから国環研にこられた方も多いと思いますけど、朝山さんは1回海外へ出られていた?
朝山 はい。僕は最初ポスドクで3年間国環研にいて、2020年に戻ってくる前に2年ほどイギリス・ケンブリッジでポスドクをしていました。イギリスでは地理学部に所属していたんですが、僕はもともと、学部が工学部で、その後大学院で文転をして、いわゆる人文社会科学系の研究をしてます。人文社会系の研究者は、自身の専門分野が社会学や政治学などの、いわゆる伝統的な学問分野ではっきり決まっていることが多いのですが、僕の場合は大学院から文転をして新しい研究に取り組んだというだけでなく、自分自身が科学と政策の関係性についての研究することもあり、自分の専門分野がはっきりしていないところがあります。そしてまた今は国環研という理工系中心の研究所で、人文社会系の研究者として所属していて、そういう意味でちょっと変わり種のような立場にいます。実を言うと、国環研に戻ってくる前に、イギリスでのポスドク生活を終えて日本での就職先を探していた際に日本の大学のポストもいくつか受けたんですが、ことごとく落とされていました。そんなときに、たまたま国環研の社会領域での公募を知って、文系の僕では無理かなと思ったんですが、ダメ元で応募してみたところ、運よく採用してもらえたという経緯があります。そういう紆余曲折はあるんですが、今僕が国環研に在籍していることについては意外としっくりくる部分があって、というのも環境研究そのものがとても学際的な分野で、国環研にもいろんな学問分野の人がたくさんいる。もちろん理工系の研究者が多いんですが、社会の問題解決だったり、そもそも人間や社会そのものをもっと深く理解するための人文社会系の研究の必要性も強く認識されている。逆に、大学では学問分野の伝統による壁が強固にあって、なかなか分野を超えた協働ができていないという課題はいまだにある。理工系中心の研究所ということで肩身が狭いところはあるんですが、他分野の研究者との距離が近いという意味では、国環研では自分自身の枠を広げられるような環境で研究させてもらっていて、すごく恵まれていると思っています。
森口 大学だと、工とか理とか法とか、いわゆる1文字学部が多い中で、柏の新領域創成科学研究科にも連携講座がありますが、学際的なところが環境研の特徴だと思うんですよね。理と工が数としては多いんですけど、人文社会系の方もおられるし、それ以外の専門もおられるんですけど、関山さんは理、工ではないですよね。
関山 大学院は医学系の国際保健学専攻人類生態学研究室というところで学んでおりました。大学院を出た後に、大学の方でサスティナビリティ学連携研究機構という新しい学際的な研究領域のプログラムが立ち上げられまして、やはり工学、農学のメンバーが多かったんですけれどもその中にちょっと変わり種として拾っていただいて、保健学のバックグラウンドがあるということで働かせていただきました。先ほどのお話にもありましたけども大学で働いていたときは私も任期付の期間が長く、任期付を渡り歩いていたというところがあります。研究としては途上国で、健康と環境との関わりを調査するようなことをしてきたので、子供の健康にも興味があり、国環研でエコチル調査という大規模な疫学調査をやっているということはわかっていたので、2018年にこちらに着任させていただいたという経緯になります。
森口 エコチル調査のお話は後程伺いたいと思うんですけど、結構海外の調査とかもやっておられた?
関山 はい。一番長期にいたのはインドネシアで、2年間、農村部に住み込んで子供の成長をずっと追いかけるような調査をしてきました。
森口 インドネシアで住み込みといえば、どこかで住み込んでいたって話を聞いたことのある小野寺さん。
小野寺 はい。私は学生時代にインドの下水処理場に住み込んで研究をしていました。当時の研究室では、開発途上国向けの下水処理装置の実証実験がインドで行われていました。当初は現地のスタッフからデータを送付してもらう予定でしたが、精度の良いデータが出てこなかったので、やはり学生が行かなくては駄目だという話になって、私の先輩が現地に送り込まれました。私も現場を行き来しながらトータルで550日以上滞在して、研究面だけでなく、生活面でもサバイバルな日々を体験しました。灼熱の季節は特に厳しく、日中は40℃に達しますが、部屋にはクーラーもない。夜に停電でファンが止まると、疲れていても眠れないので、夜風にあたって暗闇に浮かぶ月を眺めながら帰国日を待ち焦がれました。将来、温暖化が進んで、日本がこのような厳しい環境にならないことを願うばかりです。ちなみに、幸い私は料理をするのが好きで、胃腸も強くて腹を壊したことがないので、インドで太れるほど環境に適応できました。この経験もあって、国環研でも途上国の下水処理・廃水処理に関する研究も行っております。また、インドでは、当時からITが有名でしたが、当時は電話線でインターネットにつないで、嵐のあとには途切れた電話線をつないで、日本のニュースに接したり、連絡を取り合ったり、実験データの送信をしておりました。厳しい環境で生活していても情報の大切さは感じました。
森口 電話でインターネットにつなぐのは当時私もやっていました。海外との共同研究が時代とともに変わってきた中、数は限られていますが、海外出身の研究者もNIESにおられます。AstridさんはどういうきっかけでNIESにこられたのか、NIESについてどんな印象か伺いたいと思います。
Astrid I cannot look back on a long history at NIES, as I’ve only been here for 5 years. I always wanted to conduct research that would impact political decisions and society, which is something that distinguishes NIES from universities.However, I applied for jobs at a lot of different institutes. Then, I got a job offer here at NIES,but initially, I wanted to reject it. Coming on a rainy and dark day from big cities like Singapore or Sapporo, which both have a lot of cultural offerings, made me feel scared living in a rural Tsukuba that focuses mainly on science only. I told myself “NO”. But, my supervisor at that time told me “You are a foreigner, you are not yet in a position to choose”. I’m really glad that I followed that advice. However, at the beginning, it was quite difficult for me to get accustomed to the working style here, which felt very individualized to me. It seemed like that nobody was communicating with each other; everyone was just doing things on their own. Even at lunch time.I remember, when I first joined, I asked at noon “Where can we have lunch?”. I got the reply “Over there, there’s a canteen and there are vending machines”. I hesitated and asked “一緒に行こう?”.But everyone had their own Bento and was eating at their desk. For me, it felt that this workstyle makes research quite difficult and slow. In my past, a lot of research was done during lunch time.That means, simple questions could be quickly solved during an informal talk, instead of making an appointment for a meeting each time.I still feel sometimes that it is difficult as a foreigner to get involved in discussions. Of course,one fault on my side is that ちょっと日本語しゃべれないので. Looking back in time, I think NIES makes a lot of effort to create a more inclusive environment. Today, I’m participating in this discussion, which is a great example. But looking ahead, I believe there is still much work to be done for the future.I was impressed that NIES collaborates with commercial aircraft and ship companies to conduct environmental monitoring. This kind of collaboration is something many other countries try to do, but it seems to be impossible because of bureaucratic reasons, at least for the moment.In this context, I got involved in a collaborative project with overseas partners from Germany. In this project, a special instrument developed by Heidelberg University is deployed on one of the Japanese cargo ships with the aim to validate data of the upcoming GOSAT-GW satellite. Now I think, despite my limited Japanese skills, I have a great chance to contribute to an important project for the future.
(日本語訳)私はまだ5年しかNIESに在籍していないので、NIESでの長い歴史を振り返ることはできません。政治的な決定や社会に影響を与えるような研究をしたいとずっと思っていました。それができることはNIESと大学の違いであると思っています。いろいろな研究所に応募した中で国環研に内定をもらったのですが、最初はお断りしようと思っていました。多くの文化的サービスの提供が進んでいるシンガポールや札幌のような大都会から、雨の降る暗い日につくばに来てみると、科学にだけ力を入れている田舎での生活が怖いように感じて、自分に「ここはやめよう」と言い聞かせました。しかし、当時の上司に「君は外国人だから、まだ選べる立場ではない」と言われました。そのアドバイスに従って本当に良かったと思います。とはいえ、最初のうちは私にとって非常に個人主義的と感じる働き方に慣れるのが大変でした。誰もお互いにコミュニケーションを取っていないような感じで、ランチタイムもみんな自分ひとりの印象でした。入所したての頃、昼休みに「お昼はどこで食べられますか?」と質問したことがあります。「あそこに食堂があって、自動販売機もありますよ」と返事をくれました。私は少し躊躇して、「一緒に行きませんか?」と聞いてみました。でも、みんな自分の弁当を持っていて、自分のデスクで食べていました。このような働き方では研究がとても難しく、時間がかかると感じました。過去に働いていた時はランチタイムに研究に関する多くの会話をしていました。簡単な質問であれば毎回アポを取らず、インフォーマルな会話の中ですぐに解決することができていたと感じます。今でも外国人として議論に参加するのは難しいと感じることがあります。もちろん、少ししか日本語がしゃべれないという理由もあるとは思いますが。昔に比べると、国環研はより包摂的な環境を作るために多くの努力をしていると思います。例えば今日、私がこのディスカッションに参加していることも素晴らしい例です。しかし将来を見据えると、まだまだやるべきことはたくさんあると思います。私は国環研にきて、民間航空会社や民間船舶会社と協力して環境モニタリングを行っていることに感銘を受けました。このようなコラボレーションは他の多くの国でもやろうとしていることですが、少なくとも今のところは官僚的な理由でできていません。私は国環研でドイツの機関との共同プロジェクトに参加しました。このプロジェクトでは、ハイデルベルク大学が開発した特殊な観測装置を日本の貨物船に搭載し、GOSAT-GW衛星からのデータを検証することを目的としています。私の日本語能力は限られていますが、将来に向けて重要なプロジェクトに貢献できる大きなチャンスを得たと思っています
森口 ありがとうございます。民間航空機は町田さんのCONTRAILプロジェクトですね。船を使った観測も記念誌で取り上げています。僕が若い頃って結構一つの部屋に集まってああでもない、こうでもないと話していましたが、時代の違いもあって、あるいはコロナのせいなのか、今は1人でこもって研究するようになったのかな。田中さんお待たせしました。欧州から日本に来られたAstridさんの距離に比べればはるかに近いんですけど、関西の出身で西から東にこられたんですよね。東京のまだその先の、街灯も暗いつくばになぜわざわざ来たのかなって、どういうきっかけで、とか、1年過ごしてみてどうでしたか。
田中 関西にいたときは、ビルが立ち並んでいて、見ようとしないと月や星が見えないような都会で暮らしていたのですが、今は自然豊かで少しずつ景色が変わる国環研の構内をリラックスしながら通勤しています。つくばの国環研に飛び込んだのは、「幅広い環境研究に取り組む日本で唯一の研究所」という紹介に魅力を感じたからです。実際に働いてみると、想像していた以上に研究の分野が幅広く、さらにその中の一つひとつの研究が深く、大きく、太く、重く、新しく……、毎日ワクワクしながら業務に臨んでいます。また、既に話に出ていたように、多様なバックグラウンドを持つ所員と共に仕事を進められるため、様々な角度からの考え方に触れたり、思ってもみなかったところに解決策を見出だしたりする機会が多く、これも楽しく働けている理由の一つだと考えています。今回の座談会に参加するにあたって、50年の歴史に触れ、国環研独自の制度や所員同士の距離感、恵まれた働きやすい環境などは、先輩方が整えてこられたものなのだと知りました。本当に感謝しております。
森口 就職面接を受けるときのような模範的な答えをしてもらって、有難うございます。ということで1ラウンド目、誰も忘れてないですよね。お互いに何か皆さん話されたことで質問があれば。
朝山 僕は東京在住なんですけど、戻ってきたのが2020年でちょうどコロナ禍の只中で、最近は出勤する頻度もあまり多くないんですが、先ほどの石濱さんの話を聞いて、自分の職場が実はそんなすごい自然が豊かな研究所なんだと初めて知って驚いています。国環研の中の自然について是非もっと話を聞かせてもらいたいです。
森口 生物多様性の価値というのも、説明するの難しいですよね。自然の価値、せめてこの座談会メンバーには理解してもらいたいですよね。
石濱 そうですね、生物多様性の保全というと、例えば気候変動で氷がなくなってシロクマがかわいそう、みたいな感覚でとらえられていることが多いと思います。けれども、保全は、かわいそうだからというセンチメンタルリズムでやっているわけではないというのは機会があるごとにお伝えしています。人間も自然の一部であり、人間社会は生態系の支え、自然の恵みのもとに成り立っているのだということ、綺麗な水も空気も自然が作っているものだし、文化の多様性も、地域の生き物の多様性があってこそ成り立つものがあり、これが生態系サービスと呼ばれるものです。ただ、昔はその辺で魚取りや虫獲りして遊んで、子どもの頃から自然に親しみながら育つのが普通だったのが、今どんどんなくなってきて、生き物の知識が失われていってしまっているのを、改めてつなぐことが必要なのかなと思います。生物多様性の主流化っていうんですけれども、その取り組みを、私の上司であった、3代前の生物領域長でもあった竹中さんが中心になってやってこられたという経緯があります。環境配慮憲章と環境配慮計画の中に、生物多様性に配慮する、構内の緑地を地域の自然の一部ととらえて保全しますということがちゃんと書き込んであるのが、環境研らしいところだと思っています。
森口 お名前が出た竹中さんには記念誌に載せる写真にも写っているアカマツ林の歴史とかも教えていただきました。皆さんがNIESにこられてからの経緯とか、今何やっているとか、NIESの良さとかお話しいただき、一方で自由度はあるんだけれど、何か一緒に一体感を持ってやってる、というところがちょっと足りないかな、といった話も出ました。今、第5期の中長期計画の途中ですが、独立行政法人になる以前は環境庁、環境省の直轄の研究所でしたが、直轄の割には自由にやらせてもらってたんですよね。でも独法になってからかえって、いろんな文書をつくらなきゃいけなくなって結構大変かなっていう感じはします。そうした中、第5期の準備でステークホルダー会合をやりましたが、当時企画部で担当いただいた小野寺さん、それについて話してもらえますか。
小野寺 私が企画部で担当したのは第5期の中長期計画を検討していく時期でした。国環研がこれからどういう方向性で研究をするべきか、プロジェクトを作っていくべきかというのを、運営戦略会議などの場で様々な議論が交わされていました。このなかで、環境省や所員の意見だけではなく、多くのステークホルダーに向き合いながら、我々がどこに進むべきかを検討していくため、ステークホルダー会合を行ったと理解をしております。実際にステークホルダー会合はとても印象的で、様々な分野の第一線で活躍されている方々の「生の声」はとても説得力があるものでした。今後もステークホルダーに向き合うという姿勢はとても大切だと思います。
森口 いろんな方に来ていただいて、ポイントとしては、もちろん環境省、国のための研究はやるんだけど、お客様はもっとたくさんいるんじゃないか。企業とか市民団体とか、いろんな人に向けて成果を発信したらいいんじゃないかって話があって、それが今の連携推進部を作ることになって、長坂さんはそこの外部資金室におられます。さて、これからについて考えたいと思うんですが、環境問題の目標年としてよく取り上げられる2050年に向けて、結構確実なことがあって、少なくとも日本では人口どんどん減っていきますよね。高齢化も進むし、残念ながら温暖化が進むことは避けられない。首都直下型地震とか南海トラフ地震が来る確率も高い、といったこともある中で、我々が何ができるのかないうことを考えていきたいと思います。2050年って遠い先のことかなと思いますが、実は結構近いですよね。気候変動枠組条約も生物多様性条約も1992年ですから31年も経ってるわけですよね。2050年までってそれより短い25年余りしかない。2050年を我が事として、研究として考えておられる方もあって、関山さんはエコチル調査を担当されていますが、エコチル調査は長く続きそうなのですよね。
関山 もともと13歳までの追跡の計画だったんですけれども、2022年に環境省の方で健康と環境に関する疫学調査検討会というものが開かれて、今後のエコチル調査をどうするかということが議論されました。その検討会の報告書の中で、13歳以降40歳程度まで、継続することが望ましいという結論になっています。現時点では実質的な基本計画というのは、13歳から18歳までの計画なんですけれども、今後は40歳までを見据えた調査を検討していく必要があります。エコチル調査の対象の子ども達は、生まれが4年間に跨っているんですけれども、一番年長のお子さんは2011年生まれなので、ちょうど2050年には39歳、ほぼ40歳になるというところで、そのころまでを見据えていく必要があります。
森口 予定通り予算がつき対象者が協力してくださるなら2050年まで我々の務めを果たさなきゃいけないですよね。
関山 はい、そのように考えております。現在関わっている研究者のほとんどが、その頃には高齢者になっていますが。
森口 2050年より少し前ですが、遠藤さんにもターゲットの年がありますよね。
遠藤 福島としては2045年3月、2044年度末までに、浜通りに整備した中間貯蔵施設をなくして県外最終処分を完了させるという約束があるので、今から21年後ですか。私がここに来てからと同じ月日ぐらいしか残ってないので、そんなに遠い話じゃないなと思っています。そのためには、人材育成も実施していかなければならないと考えておりまして、福島地域協働という名前があるように、地域協働推進室というのがこの中長期で作られまして、地元の高校や、NPO法人といった皆様との対話として、出前講座や、ふくしまカフェみたいな企画をやっています。その企画自体も、研究系職員というよりは事務系の職員の広報担当に企画していただいて始めたので、今現在でも、研究系と、事務系と、あと地元をつなぐ高度技能の方も参画しています。先ほど規模感、届きやすい距離感という話があったかもしれませんけど、福島拠点としても距離感的には非常にいい規模で、そういったことができてるんじゃないかなとも思います。2045年、21年後ですと今の高校生が30代半ばですので、ちょうど彼らが主役になる時期だと思っています。また、これらの活動が、将来的な研究者としての人材不足の解消に繋がればいいなと思っています。同時に、我々も、彼らの世代の感覚とか意識を、やはり学ばなければいけないなと感じているところです。
森口 次世代の話は、後半の主要な話題ですね。エコチル、福島の話題を取り上げましたが、2050年って気候変動の話でよく出てきますよね。気候変動はいろんな研究チームで取り組んでいますが適応を担当されている石崎さん、2050年に向けて、どんなことをやっていかなければいけませんか。
石崎 気候変動が世の中に知れ渡ってきたのは2000年過ぎでした。2007年にIPCCのノーベル平和賞受賞があって、ちょうどその頃私が初めて従事したのが、住先生や江守さんが率いた温暖化実感プロジェクトS5でした。その時は、温暖化が起こりますよ、どんな世界が待ってますよっていうのを世の中にまず伝えることが大きな目的でした。そういったプロジェクトによる科学的な情報がマスコミに取り上げられるようになったり、実際に温暖化も進んできてこれまで起こらなかったことが起きていることを皆さんが実感するようになってきて、今では温暖化しているということ、そのためにできることなどが共通の認識として一般の人々にも広まってきたと思います。では、2050年のカーボンニュートラルに向けてこれからどうするかを考えると、緩和だけではなくて適応策でもっと快適にできるかもしれないということを、もっと世の中に広めていく必要があると思っています。適応って正解がなくて、評価の仕方も難しくて、地域によっても気候変動の影響が違ってくるのでどうしたらいいかわからないっていう方も多いんです。それに対して私たちができるのは、研究による科学的知見でサポートしつつ、出せるデータがあればどんどん出して、どんな解決策があるのか、どんな適応策をとれる可能性があるのかということを探すお手伝いができたらいいかなと思います。そのためにも地域の大学や企業などとも連携して研究を進めていきたいと思います。
森口 いろんなパートナーと連携というのも、共通して出てくる話題かなと思います。正解のない問題も大事なキーワードで、理工系だと答えが1つに決まる、これが正しいということを言いたがるんですけど、文転された朝山さん、温暖化対策だって世の中の理解を得ながら進めていかなきゃいけないし、科学技術と社会の関係の研究もされているんですよね。2050年に向けて何が大切ですか。
朝山 気候変動の問題もそうですが、地球環境問題の本質って人間社会がどうあるべきかという非常に大きな問いに関わってくる話なので、それは当然ながら研究者だけで答えを決めることはできなくて、社会全体として考えていかないといけない問題だと思います。その中で、人文社会系の研究者の役割は、まず人間社会をより深く理解していくことだと思います。研究者がどんなにいい解決策を思いついても、人々に支持されなければ、それは結局、絵にかいた餅に過ぎません。科学と社会は切り離すことはできないので、研究者が一方的に答えを出そうとするのではなく、まず人間や社会をもっと理解していく努力が必要かなと思います。また、先ほどのこれまでの国環研の変遷の話がありましたが、この50年間で独法化なども経て国環研が大きく変わっているように、社会も大きく変わってきている。日本では1990年以降は「失われた30年」と呼ばれ、あまりいいイメージがないですが、世界で見れば90年代からの30年というのは、1989年のベルリンの壁崩壊によって冷戦が終わった後の新しい時代への突入という意味合いがある。そういう時代の変化の中で、気候変動や生物多様性などの地球環境問題が国際政治における重要な課題になってきたという背景がある。京都議定書、パリ協定を経て、今は世界で2050年カーボンニュートラルの達成に向けた動きが高まっていますが、実際には排出削減はなかなか進まない状況が続いている。それに加えて、ウクライナやガザの戦争もあって、世界がいい方向に向かっているようには見えない部分はやっぱりあると思います。国際政治の現実といかに折り合いをつけるのかを考えることも重要なんですが、環境研究には、やっぱりある種の理想主義みたいなのがあって、リアルな国際政治とのせめぎ合いみたいなものも同時に考えてやっていく必要があると思っています。つまり、地球環境問題の解決には国際協調は不可欠な面があって、例えばカーボンニュートラルの目標も日本だけが達成できてもあまり意味がない。そういう視点でいえば、社会を理解するだけではなく社会をどう変えていくべきかにも踏み込んだ研究がこれからの人文社会系の研究に求められているのかなと思います。そして、今社会が大きく変化していて、これからもどんどん変化していく中で、国環研自身も今後どう変わっていきたいのかを考えていかないといけないかなとは思います。
森口 50年史の中でも国立環境研究所と様々なパートナーっていう章があって、日本の研究機関もあるし地方の研究機関もあるし、国立の他の研究機関もあるし、当然国際協力の話とかもあるんですけども、Astridさん、国際協力について何かコメントありますか?日本は欧米から多くを学びましたが、日本から何か輸出できるものはありますか?
Astrid OK, what can be shared or exported from the Japanese side to international partners. What comes first to my mind regarding my research field,is the collaboration between research institutes like NIES with the private sector like the CONTRAIL project or the NIES Ships of Opportunity program(SOOP). There is a similar international aircraft project in Europe, the IAGOS Project, and other SOOPs, but not such a close collaboration of both ship and aircraft companies which allows the quick deployment of new instruments onboard,or the extension of the observation network.Another thing which comes into my mind is the highly precise and efficient technology and infrastructure, for example earthquake-resistant buildings and trains which arrive down to the minute. These are things I’m always advertising overseas. I hope the communication will not stop at “here in Japan we make this better, and in the other country we make that better” but that this is the basis for effective communication,knowledge exchange and for honestly learning alongside each other’s. This is especially important regarding global topics like climate change, which is important for everyone. If each country is doing solutions only by themself, it’s not solving the whole problem.
(日本語訳)日本側から国際的なパートナーに対して、何かを共有したり広めたりできるか、私の研究分野で真っ先に思い浮かぶのは、CONTRAILプロジェクトやSOOPプログラムのように、民間企業とのコラボレーションです。ヨーロッパには、IAGOSプロジェクトやその他国環研でいうSOOPプログラムのような国際的な航空機プロジェクトはありますが、研究機関と船会社、航空機会社の両方が密に協力して、新しい観測機器を迅速に船上に導入したり、観測ネットワークを拡張したりすることはできません。日本から提供できるものとしてもうひとつ思い浮かぶのは、耐震性のある建物、分単位で到着する列車、など、非常に精密で効率的な技術やインフラについてです。 これは私がいつも海外で宣伝していることです。私は、「日本ではこれを良くし、他国ではあれを良くしていく」という形にとどまらず、効果的なコミュニケーションや知識の交換、そして素直に学び合うことの基礎になることを願っています。特に気候変動のようなグローバルなテーマは誰にとっても重要なことです。各国が自分たちだけで解決策を講じるのでは、問題全体の解決にはなりません。
森口 情報という観点から白井さんに後でお話いただきたいんですけども、気候変動と並んで生物多様性も関心が高まっていて主流化って話がありましたけど、国際的なパートナーシップについて生物多様性の分野でも随分進んだんでしょうか。
石濱 生物多様性の一番難しいところは、例えば二酸化炭素だったら全世界で共通の物質ですけれども、生き物の種類は地域ごとに全く違うんですよね。もちろんCO2も世界全体で観測しなければいけないんですけれども、生物多様性の場合は、それぞれの地域の生態系を知っている、地域の専門家が関わって観測していかないと、全世界の生き物の状態の把握がとても難しいということがあります。そのための観測ネットワークの構築が進んでいます。今、TNFD(Taskforce on Naturerelated Financial Disclosures)といって、企業活動の生物多様性への影響や、逆に自然が失われることで、どういうインパクトが事業にありますかということをちゃんと評価して開示しないといけないっていう動きが世界的にあるわけですが、評価しようにも観測値や評価方法が地域の生態系を考慮したものがないと、失われていくものも気づかれずに終わってしまうという問題があります。
森口 気候変動とか生物多様性の話ってすごくグローバルですけど、小野寺さんやってこられた分野では相手国があって、それぞれの事情に応じて、ということがあると思いますけど、今も海外の調査もされているんですか。
小野寺 そうですね。私が直近で行った海外調査は、地球環境研究センターの方がリーダーのプロジェクトでした。ここではオイルパーム農園への土地利用変化に伴う温室効果ガスに関する研究です。パーム農園をつくると、土地利用変化によって温室効果ガスの発生量が変化しますが、パームオイルを作る過程では有機性廃水がでて、これをポンド(池)で処理するわけですが、その処理過程でメタンが排出されることから、私がメンバーに加わって池の水質やガス発生量の調査を実施しました。実際、廃水処理を専門としている私にとっては、池からメタンが出る光景は日常的なものですが、地表面からのわずかなフラックスを観測している同僚の研究者からすれば、それは驚くべき非日常的な光景だったようです。そして、調査の結果、廃水処理由来の温室効果ガスが、土地利用変化に伴う影響のうちで大きな割合を占めているということが明らかになりました。国環研の中で、様々な専門家が連携して研究を進めていくことは強みであるとともに、研究者個人にとっても視野が広がるので良い経験ができるものと思います。
森口 同じ国環研の中にいて、関連することをやっていてもお互い知らないみたいなことがあるかもしれませんね。もっと横のつながりがあったかもほうがいいかもしれませんね。エコチル調査も、海外の調査に最近行かれたんですよね。
関山 はい。エコチル調査でも昨年度、国際アドバイザリーボードの予算をいただいて、イギリスのブリストル大学を訪問しました。ブリストル大学では、エコチル調査開始の約20年前、1991年からALSPACというコホート研究を実施しています。1991年から開始していますので、そのころ生まれたお子さんは既に30代で、三世代(お母さん、お子さん、お子さんのお子さん)を対象とした調査が開始しています。エコチル調査では、「エコチル調査だより」というリーフレットを対象者10万人の方に年1回お配りしているのですが、そこでは、ALSPACを訪問してきたことを報告するとともに、先方の取り組みから私たちが学ぶべきところなどを紹介しています。その1つが、調査の参加者の方の意見を取り入れるという取り組みです。参加者の方に、調査計画の倫理的側面を審査する倫理審査委員会の委員になってもらう、参加者パネルを作り、調査計画や結果のフィードバック、広報など調査の様々な側面に関する助言をいただくなどの取り組みがなされていました。15歳から参加できる参加者パネルもあり、10代の参加者の意見を広く取り入れて参加者のエンゲージメントを高める工夫もされていました。そういったものもエコチル調査で取り入れながら、今後、次世代育成をしていきたいと思っています。
森口 遠藤さんのお話でも、福島で若い世代と一緒に、問題に向き合いながら関心を持ってもらい、次世代の育成にも繋がる、という話がありましたが、仲間を増やしていかなきゃいけない。これまでは研究者って自分の研究だけやってるみたいなところもありました。研究の中でも繋がり直さなきゃいけない部分もあるし、外のパートナーをいろいろ探していかなきゃいけないし、国環研でため込んだ情報を提供していかなきゃいけない。専門家向けの情報も役立てていかなきゃいけないし、広報もどんどん活用しなきゃいけない。自分に振られるかなっていう予感がしている白井さんお願いします。
白井 先ほどの朝山さんから皆さんの発言全部が繋がっていて、やはり「測るだけでは減らせない、調べるだけでは解決しない」という根本的な問題があります。環境研は測ったり調べることは一生懸命やるんですけど、それを社会にどう反映していくかっていうところまで手を出す人は少ない、私も含めて。ただ環境研は設立当時から、1号業務である研究と並んで環境情報の業務を重要視してきました。この通称2号業務については、森口理事が詳しいですが、半世紀経って今すごくその重要性が増しています。先ほど石濱さんがTNFDとおっしゃったんですけど、もともとclimateの方のTCFDというのもあったりして、民間など、環境研が得意でなかったような連携先も含めてどう貢献していくかが問われています。少ない人員で全部はできないので、私はやはり環境情報を通じて貢献していくというのは今後1つの柱となっていくのではないかと思っています。研究所が生み出しているデータだけでもかなり価値が高いですが、それ以外にも今まで環境情報の中でなかなか外に出す事ができなかったような利用価値のあるデータをどんどん出していく。それも、人が使えるような形で出すのはもちろん、今は機械学習や生成AIなど人間以外の力も借りて、どんどん解析を進めていくという時代にもなっているので、そういうところも意識しながら、データを表に出していく。どういう使い方をして貢献していくか、そこから先は、それこそステークホルダーの皆さんなどと一緒にやっていければいいと思うんですけど、せめてデータは出そうよっていう、そこからいろいろな繋がりができて、環境研の存在感が増していくと良いのではないかと考えています。
森口 折角しっかりしたデータがあるのに、データ取るだけで終わっちゃったらもったいないですよね。自分たちでもっと使えばいいんだけど、でも取るだけで忙しいって部分ありますよね。こんないい研究を皆さんのためにしてますよって存在感を見せていかなきゃいけないので、広報ってすごく大事だなって改めて思います。広報室の田中さん、どうですか。
田中 おっしゃるとおり、せめてデータだけは出していこうという動きが今、とても大切だと思います。そして、さらにその先を見据えると、これまでよりも国環研に適した形で外へアプローチしていく必要があるとも考えます。調査する対象も届ける対象も幅広い「環境」を扱っているからこそ、目に入っても無視されるような形で、あるいは、そもそも誰も見ていない場所に、必死でデータを投げ続けてしまう可能性があるからです。今、国や社会からは何が求められていて国環研はどんな形で応えられるのか、中学生、企業、生成AI、未来の人々のそれぞれをターゲットにするならどんな工夫が必要なのか。そういったことを、広報に携わる企画・支援部門の職員として、所内の要望や負担などを踏まえながら検討し、所員と同じ方向を見ながら発信することで、国環研の認知度や信頼性の向上につなげたいです。他には、内部への広報や内部での情報交換をより進めていくことができれば、所員同士で面白い化学反応が起こるのだろうな、などと考えることがあります。広報室の私の手元には、発表する研究成果やホームページ・刊行物等に掲載する情報が次々と集まってきます。その中で、一見すると全く違う分野の研究や活動であっても、ステップや考え方が似通っているものがあることに、最近気づきました。他にも、同じ生物や同じ物質に対して全く別の角度から切り込んでいる研究があったり、お互いに延長していくと実は結びつくのではないかと思える活動があったり。今後、研究所内でも情報が適切に行き交うことで、所員の予期せぬ気づきや新たな発見につながれば良いと思います。
森口 サイズ感、距離感でいうと、すごく大きな研究所じゃなく、いい規模感なんだけど、昔に比べると随分人も増え大きくなって、他の人が何をやっているかが見えにくくなってしまっているかもしれない。無理しなくても自然と情報が入ってくるような仕組みも何かできそうな気はしますね。2050年に向けて人材育成とか情報発信とか、いろいろやることがあってよく話題になるのは、人材。今日参加された方が研究所に来られた頃は、職探しに苦労されていたようですが、逆に最近は我々が人を探すのが大変なぐらい、研究者を目指す人も少なくなっているような課題もあります。日本人だけじゃなくて海外の人も含めてこの研究所に魅力を持って働きに来てもらうためにいろんなことをやらなきゃいけない。外国人が働きやすい、日本語がわからなくても働ける環境にするのはまだハードルが高いかな。阿部さん、長く環境研の事務部門におられて、50年積み重ねてきたことでも、時間をかければ、この辺は変えられそうかなみたいな、そんなのって何かありますか。
阿部 これまで、IT系とかインフラの、皆さんの仕事をする環境を整えたり発展させたりということを多くやってきました。先ほどの話で例えばAIの話題も出ました。もちろん研究でも使われますが事務系でいえば、例えば今日の議事録作成などもそうですし、所内のマニュアルや手引きなどたくさんのドキュメントがありますが、なかなかすべては読み切れないという問題があります。そういうデータをどんどんAIに学習させて、ナレッジベースから自分が今求めてる答え、或いはそれに相反するような答えなどがどういったところにあるのかが分かるという仕組みができないと業務効率化が図られず、事務系の人材確保も結構大変かなと。かつては私が入ったころはさすがに電卓世代ですけど、先輩はそろばん世代。それからコピー機も高いからあんまり使っちゃいけなくて、会議の資料なんかは輪転機まわしてた世代ですが、2011年の頃にLINEが出始めたとか、TikTokなどもここ7、8年ぐらい、iPhoneは2007年ぐらいからと、どんどんそういうツールも変わってきています。今当たり前のことはあの頃だと考えられなかったんですけど、どうしても事務系は少し保守的な発想、法律に基づく、規程に基づくというきちんとやって当たり前という仕事なのでやむを得ないのですが、私は割合、事務系の中でも、仕事する環境を広げるとか整えるほうの経験が長いので、若い人たちにも、今やってることが、10年後20年後もそのままではない、或いはやり方が変わるのが当たり前とか、そういうことにもできれば目を向けていただけると、ということを10年後には研究所にいない者の遺言として伝えたいなと思っていました。
森口 遺言モードになっちゃいました。この前、電子決裁になったのはいいとしてそもそもこの決裁いるの?自分たちで決めたルールに縛られて仕事を増やしているような感じがして、もっと減らせないかな、と感じることがあります。
長坂 できれば斬新な提案をと考えているところなんですが、全カットになっちゃうんじゃないかという心配もありますので、テーマを2個ぐらいしゃべりましてどちらか1個でも残ったら…と考えています。昨年とか結構話題にになっていたのが、電帳法です。CMでも良く聞いたと思います。電子帳簿の関係の電帳法です。あれ独法では関係ないんですね。ですので全然国環研では対応してないところなんですが、電子帳簿のいい点もあって、10年後っていうところではもうちょっとペーパーレスが進んでもいいんじゃないかと考えております。特に会計関係では。これは保守的な提案です。もう1個はちょっとぶっ込もうかと考えているところなんですが、ため込んだデータのことをおっしゃってたじゃないですか。データの活用だけでなく、資金も有効活用ということで、資金を運用することを考えております。独立行政法人通則法でも、限定的ではありますが運用に関する規程も記載されております。現状だと運用って全くできていないところなので、例えばですけど、そんな高いリスクではなく、堅実な運用ができないかを考えております。なんかセールス的なトークにだんだんなっちゃいそうなんですが、年金とか多分運用されてますよね。それと同様に国環研でもそう言った運用を今後検討できたら…と思います。
森口 常識っていうか、できないと自分でそういうふうに思い込んでることもあるのかな、と思いました。次世代の人材育成、遺言っていう話もありましたけども、遺言を残しても受け取ってくださる方、研究者も、企画・支援部門も来ていただかなきゃいけないと思います。そういう観点でアイディアとか、こうすればもっと来てくれそう、とかありますか。気候変動解説芸人と自称しておられた江守さんが大学へ転出されましたが、大学へ出て次世代を育ててくださる方もあるし、国環研を支えてくださる人材をどうやって育てるかって話は大事なので、教育にしろ、パートナーにしろ、いろんな人を見つけていかなきゃいけないと思いますね。企業との連携もありますし、生物多様性もすごく企業からのニーズは高まっていて、その辺りはどうですか。
石濱 最近、企業から、話をして欲しいとか、アドバイスして欲しいっていうお話はかなり増えてきたなという印象はあります。そもそも生物多様性の考え方自体が、理解いただけてない場合もあるのでそこからお話することも多いですね。研究者ではない方にも理解していただく必要に加え、研究者の次世代を育てないと、というお話もありましたが、自然系の研究をする人って子どもの頃から生き物好きでしたっていう人が多いんですよね。中学の頃からずっと観察していて論文まで書いちゃったお子さんがいたりとかですね。なので自然好きの子どもを増やすという、いわばすごい青田買いもある程度必要で。大学教育、地域の学校教育さらに、幼児教育レベルまで、いろいろなレベルで連携して、自然と関わる機会をどんどん作っていくことも必要だと思います。子どもの頃に虫が嫌いになってしまうとなかなか変えることは難しいですし。今「つくば生きもの緑地ネットワーク」というものの呼びかけをしていて、最初は研究機関連携のつもりだったんですけれども、今では企業やNPO、保育園関係者にも参加頂いています。
森口 大学よりもっと前から、地元の中高とか小学校とか、地域の次世代に働きかけていくということも必要かなと思います。日本だけでなく欧州でも高齢化が進んできましたが、Astridさん、次世代について、何かコメントありますか。
Astrid I want add some thoughts to the outlook towards 2050 and the future. One thing is the decreasing population and change of lifestyles. Itis important, also for NIES, that we look ahead and have enough researchers in the future.Working at NIES should be attractive for the younger generation. That means, the support of different lifestyles needs to be improved. Talking from my experience, living alone with a child,and doing for example, research fieldwork at the weekend is almost impossible, because there is basically no support system for these cases from the city. So I hope Institutes like NIES can offer more and flexible support for this kind of situation. In future, different lifestyles like single parent families will become more frequent because the standard family type where the grandmother is living next door is decreasing. In addition, the younger generation wants a better work-lifetime balance. Better part-time research opportunities will help. And especially in an international context, to attract more foreigners and foster the research and manpower exchange,working at NIES needs to become more attractive for foreigners, too. I think, NIES needs to become more inclusive which will, in turn, increase its international competitiveness. I tried to recruit a PhD student here, but he declined with the words that it would be a great experience and interesting to work for something like two month, but living and working for longer would be too difficult.I think, NIES does great progress compared to other institutes, but still more needs to be done to make people with different backgrounds and lifestyles feel integrated and involved in the scientific discourse.Finally, I have one question about how NIES is perceived by the society in the past and today. I know, it started as an institute focusing on local pollution. And today, NIES became a research institute with a wide field of departments, all aiming for a sustainable life for humans and the environment in future. I’m interested in how strong was and is the impact on environmental policy and the public awareness. Were there great changes in policy and public awareness because of NIES? Coming from Germany, I know that the Potsdam Institute for Climate Impact Research for example is well known by the public and internationally. NIES is known in the science community, but how about the local people? I think, the aim is to raise awareness for environmental problems and to shift people’s mindset towards a more sustainable lifestyle with the goal of a sustainable society. Is there a strong awareness? And if not, I hope we can do something to increase the public awareness not only by better data access and better visualization,but also by promoting projects like CONTRAIL or SOOP, and by involving the public more into the research like through citizen science.
(日本語訳)2050年、そして未来に向けた展望としていくつかの考えをお話しします。一つは、人口の減少とライフスタイルの変化です。国環研にとっても、将来を見据えて十分な研究者を確保することが重要です。国環研で働くことは、若い世代にとって魅力的であるべきでだと思います。つまり、さまざまなライフスタイルへのサポートを充実させることが必要です。私の経験で言えば、子供と2人暮らしで、週末にフィールドワークをするのはほとんど不可能です。そのため、国環研のような機関がこのような状況に対して、より柔軟なサポートを提供してくれるとありがたいです。これからは、隣におばあちゃんが住んでいるような標準的な家族形態が減っていき、ひとり親家庭のような異なるライフスタイルが多くなっていくでしょう。また、若い世代はワークライフバランスの充実を望んでいると思います。パートタイムの研究機会をより充実させることも有効だと思います。特に国際的により多くの外国人を惹きつけ、研究と人材交流を促進するためには国環研で働くことが外国人にとって魅力的である必要があります。私は、国環研がより包括的になることが、ひいては国際競争力を高めることにつながると考えています。私は過去に博士課程の学生に、国環研で働かないかと誘ってみたことがあるのですが、「2ヶ月くらいならいい経験になるし面白いと思うけど、それ以上の期間そこに住んだり働いたりすることは難しい」と断られてしまいました。国環研は他の研究所に比べると素晴らしい進歩を遂げていると思いますが、異なる背景やライフスタイルを持つ人々が、科学的な議論に溶け込んで、参加していると感じられるようにするためには、まだまだ多くのことが必要だと思っています。最後に、国環研が過去から現在まで、社会からどのように受け止められているか知りたいです。国環研は、地域の大気汚染などに焦点を当てた研究所としてスタートしていると思います。そして今日、持続的な将来を目指す幅広い分野を擁する研究機関になりました。国環研が環境政策や国民の意識にどのような影響を与えたのか、また現在も与えているのか興味があります。国環研のおかげで、政策や国民の意識に大きな変化があったのでしょうか?私はドイツ出身ですが、例えばポツダム気候影響研究所は一般的にも国際的にもよく知られています。国環研は科学の世界ではよく知られていますが、地元の人々にはどうでしょう。環境問題に対する意識を高め、持続可能な社会を目指し、人々の意識をより持続可能なライフスタイルへとシフトさせていくことが私たちの研究の目的だと思います。国環研にそういった強い意識はあるのでしょうか。もしそうでないなら、データへのアクセスや可視化を改善するだけでなく、CONTRAILやSOOPのようなプロジェクトを推進したり、市民科学のように一般の人々を研究に参加させることで、一般の人々の意識を高めるようなことができたらよいと思います。
森口 Asridさんが話されたことは、他のメンバーの話題ともとても関係していると思います。国環研の知名度を高め、研究者だけじゃなく、いろんな人に知ってもらって環境問題の重要性を皆さんに知ってもらう。行動を起こしてもらう上でも国立環境研究所がもっと頑張って知名度を上げていかなきゃいけないっていうこともあるんだろうなと思います。滝村さん、最初に発言いただいて2巡目は最後になって、長い長い間聞いていただいてました。
滝村 ありがとうございます。いつ回ってくるのかなと思ってたんですけど、まさか最後と思わなかった。皆さんのお話を聞いてて、ちょうどこの50年の年表がさっき出てたんですけど、私が環境省に入った頃が最初の50年分の10年目ぐらいの辺りですね。上司がよく「開発は悪魔だ」っていう言い方をしていたのを覚えています。自然を保護する立場からいうと、開発は悪魔である、何としても防がねばならないと。それから時は流れて、私たちの環境へのとらえ方、環境を保護・保全するってどういうことなのかという考え方が大分変わってきてるように思いました。自分自身初めてへえっと思ったのは、ラムサール条約でWise Useという言葉を使いますね。賢く使っていこうと。それは保護一辺倒とはまた違う現実的な考え方と思って、そうか環境と賢くつき合う、賢く使っていくっていうことが、人間が果たさなきゃいけない役割なのかと思ったことがあります。賢く付き合うといっても、どんな相手なのか知らなきゃいけないし、人間が何かをすることで、そのインパクトがどんなふうに相手に影響するのかということも知らなきゃいけない。そういうのを知った上でじゃあどうやって使っていこうかと。かつて公害対策基本法にあった経済調和条項が削除されたりしましたが、今や、経済・社会的課題と環境の課題との同時解決ということが言われています。そういう中で国環研の役割というのも、ずっと変わらない部分もあるし、だんだんと変わってきてる部分もあるんだろうなと思います。さっきの賢く環境とつき合っていく上での、いろんな材料を提供していく、みんな賢くつき合いたいって言ってるけど何がいいつき合い方・使い方なのかってなかなかわからない人もいるし、企業でも、風潮だからかもしれないんですけど、一生懸命取り組んでますよというのが主流になりつつあります。そういう中で本当にどうやっていこうかもう1歩踏み込もうとすると、やっぱり材料をもってない人が多いと思うんですね。そこは国環研の貢献できる役割なんだろうなと、今日お聞きしてて改めて思いました。国環研の役割というか魅力というか、国環研はよく学際性とか総合性っていう言葉で語られることが多いんですけど、単にいろんな分野をカバーしてるっていうだけではない形で、どうすればその総合力を発揮できるのかということを、これまでの中長期計画の検討でもそうですけど、それぞれの時にそれぞれの人たちが一生懸命考えてきたと思います。本当の意味で総合力を発揮するにはどうすればいいのか。もちろん基盤的な研究もあれば、プロジェクト型の研究もあって、どっちが大事とかそんな単純なわけじゃないんですけども、どういうバランスで、どういう関わりでもって取り組んでいってそれをどう世の中に表現していくかっていうことを含めてですね、考えていった歴史がこの中長期計画を作っていった歴史なのかなと。じゃあ今度の第6期どうしていくのかは、皆さんに考えていただききたいところなんですけども、そこはこれからもいろいろ変わっていって欲しい部分です。でもやっぱり変わらないで欲しいなと思う部分、国環研の良さですけど、国環研は他の研究機関に比べて結構自由だと思います。いろいろうるさいこと言われても、それはしょうがない税金みたいなもんで、確保されてる自由はやっぱり大きいと感じています。先ほどの研究部門と企画・支援部門とのいろんな意味でコンフリクトがあったりすることがあっても、国環研の良さは、常に民主的なアプローチで答えを出していこうとする部分だと思います。そういう民主性っていうのは、やっぱり誇れる部分じゃないかと。ものすごく手間がかかると思うんですね。民主主義っていうのは手間のかかるプロセスなので、なかなか答えは出ないし、ああでもないこうでもないばっかり続いてたりして、一向に結論が出なかったりですね、早く決めろよみたいな話もあるんですけど、それでもやっぱりそういうプロセスを共有しながら進んでいくっていうのは、ある意味大切なことでもあって、そこは2050年になっても変わってないといいなと思うんです。
森口 自由さは大事にしたい。だけどみんなが好き勝手にやっているだけでは総合性が発揮できない、ここをどうしていくか、ですよね。私は最初に総合解析部っていう部署に入りました。茅レポートという設立準備委員会報告書にも、いろんな分野をカバーするだけじゃなくて、総合力を発揮しなさいってことが書かれています。学際性とかいろんな人がいるっという点では、環境研って環境研究のデパート、と表現されていた。何でも売ってる。だけど何でも売ってるだけでは駄目で、「売り」があって、ここに行けばこれがあるよねっていう、そういうものが必要かなと、いうことだと思います。企画・支援部門と研究実施部門の協力の話も触れていただきました。この座談会も両方の部門から入っていただき、研究者が、いろいろなことができるのも企画・支援部門に支えていただいてるからです。今日の座談会も当然誰かに支えてもらわないとできないので、支えてくれた林さん、ここで一言お願いします。
林 事務局という立場ではありましたが、率直にとても楽しかったです。私は2018入所、現在7年目です。ちょうど先週江守さんから退職ご挨拶メールをいただいた中に、「今や、『人類』が気候変動にどう向き合うかを、わりと真顔で考えるようになった」という一文がありました。私は学生時代から理系科目が苦手で研究の道に進む決断ができず、でもどうにか環境問題に係わりたいと思い事務職に応募しました。我々事務職員も、研究者の方も、契約職員の方も、国環研で働いているすべての人が「ほそ―い線だとしても、自分の仕事が『人類が環境問題にどう向き合うのか』というところに繋がる」という気持ちを、心が折れる出来事があっても頭の隅ちゃんと置いておけるような、そんな職場になったらよいなと思います。今日田中さんの国環研に対するまっすぐな気持ちを聞いていて涙が出そうでした(笑)。事務の仕事は「誰にでもできる仕事」だと思う面もあります。それでも、「誰にでもできて」も、「誰がやっても同じ」ではないと私は思っています。どんな仕事でも、「このやり方は私にしかできない」と思えるくらいしっかりと、今後もやっていきたいと今日改めて認識できました。ありがとうございました。
森口 ありがとうございます。阿部課長の遺言を、遺産をいっぱい受け取ってくれそうな人が来てくれてとても心強いです。本当は支えてくださった皆さんにそれぞれ発言いただきたいのですが、代表して林さんにお願いしました。ありがとうございました。国立環境研究所の憲章ってご存じでしょうか。35周年のときに作りました。この前の周年史で35年の記録があって、当時の大塚理事長の発案で、私も憲章を作る委員会に関わりました。憲章の短い言葉の中に、今日出てきたことが散りばめられているんだと思います。2050年という未来、「今も未来も」って憲章にも書かれてるんですが2050年って結構近い未来なんですよね。「人びとが健やかに暮らせる環境を守り育むために、広く社会に貢献する」には、何よりも「この研究所に働くことを誇りとし」「責任を自覚」してくれる仲間を増やさなきゃいけない。一緒に働いてくれる仲間、どういうふうに仲間を増やしていくか、国の研究所だけど国際的なおつき合いもあるし、それから災害環境研究もきっかけになって国内の地域とのおつき合いも深まりました。次の世代とのつき合いもあるかなと思います。企業も関心持ってくれています。いろんなパートナー、ステークホルダーに、この50年の記念誌を読んで欲しいなと思います。なるべくビジュアルにみんなに関心を持ってもらえる記念誌を作りたいなと思ってこれまで作ってきました。ラストスパートですけれども、この記念誌が、そしてこの50周年がより多くの人に国環研を知ってしてもらうチャンスになればいいと思います。この座談会もですね。そういう形でまとめて収録したいと思います。今日はありがとうございました。
2024年4月2日
後列左から 嵯峨、長坂、朝山、小野寺、森口、阿部、遠藤、滝村、白井、岩崎
前列左から 野上、田中、石濱、石崎、関山、Astrid、林、山口
座談会メンバー(50音順)
Astrid Müller(地球システム領域)
朝山慎一郎(社会システム領域)
阿部裕明(総務部)
石崎紀子(気候変動適応センター)
石濱史子(生物多様性領域)
遠藤和人(福島地域協働研究拠点・資源循環領域兼務)
小野寺崇(地域環境保全領域)
白井知子(環境情報部・地球システム領域兼務)
関山牧子(環境リスク・健康領域)
滝村 朗(企画部)
田中 樹(企画部)
長坂淳司(連携推進部)
司会進行
森口祐一(理事(研究担当))
座談会事務局
岩崎一弘(連携推進部)
嵯峨理沙(総務部)
野上里紗子(連携推進部)
林しおん(地球システム領域)
山口有紀(環境情報部)
写真撮影
志賀 薫(企画部)