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アーカイブ集(Meiのひろば:リスク評価のひろば)


01. 大気汚染物質の発がんリスク評価

松本 理

 PRTRということばをお聞きになったことがあるでしょうか?(PRTR制度<化学のひろば)(PRTR<環境省のHP)PRTR(Pollutant Release and Transfer Register:化学物質排出移動量届出制度)とは、有害性のある多種多様な化学物質が、どのような発生源から、どれくらい環境中に排出されたか、あるいは廃棄物に含まれて事業所の外に運び出されたかというデータを把握し、集計し、公表する仕組みで、日本では,1999(平成11)年に公布された「特定化学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律(化学物質排出把握管理促進法、化管法、PRTR法)」に基づいています。


「空(大気)」イメージ挿絵

 PRTRの集計結果からあらためてわかるように、化学物質の最大の排出先は大気です。その結果、多くの人が意識しないうちに大気中に存在する化学物質に曝露(注1)されています。わが国では大気中の汚染物質である二酸化いおう(SO2)、一酸化炭素(CO)、二酸化窒素(NO2)、光化学オキシダント(OX)などのガスや浮遊粒子状物質(SPM)について、人の健康を保護する上で維持されることが望ましい基準(環境基準)が定められました。また有害大気汚染物質については、優先取組物質に重点を置いて、調査や排出抑制に対する取り組みが行われていますが、このうちベンゼン、トリクロロエチレン、テトラクロロエチレン、ジクロロメタンについて環境基準がそれぞれ定められており、ダイオキシン類の環境基準値も別に定められています。


 このほかの優先取組物質については、環境基準は設定されていませんが、環境目標値として環境中の有害大気汚染物質による健康リスクの低減を図るための指針となる数値(指針値)を定めることが適当であるとされており、現在までにアクリロニトリル、塩化ビニルモノマー、水銀、ニッケル化合物、クロロホルム、1,2-ジクロロエタン、1,3-ブタジエンの7物質の指針値が定められています。このうち後の3物質の指針値は、平成18年11月の中央環境審議会の答申(<環境省のHP)により設定されたもっとも新しい目標値です。


 リスク評価の第一段階は有害性の特定であり、次にその有害性に関して用量反応関係を評価する必要があります。化学物質の有害性については、閾値いきち(生体に影響を引き起こすのに必要な最小量)が存在するものと存在しないものがあるとされ、閾値の有無によって用量反応評価の考え方も変わってきます。発がん性以外の有害性の多くは閾値があると考えられていますが、遺伝子傷害性を有する発がん物質の多くは閾値が存在しないと考えられています。発がんのメカニズムは複雑で、プロモーション作用による発がんのように、実際には閾値がある発がん物質も存在しますが、ここでは閾値の存在しない発がん物質のリスク評価についての考え方を説明したいと思います。


 閾値のない有害性には無毒性量も存在しないことになりますので、無毒性量から評価値を算出することはできません。人の疫学データが存在すれば、それを元にリスク評価を行うのが望ましいことはいうまでもありません。しかし、現在の日本では、かつての高度成長期のような大規模な公害が発生することもなく、労働環境における化学物質の濃度もほぼ良好に管理されていると思われます。世界中で多くの新しい化学物質が使用されている現在、評価に用いることのできる人の疫学データが入手できる場合は限られています。


 そこで、実験動物を用いた発がん試験データからリスク評価値を算出する必要が生じます。実験データにおける用量反応関係の曲線を数学モデルに当てはめ、低用量における影響の程度を予測し、動物から人への外挿も行なった上で、リスク評価値を算出するというプロセスにより行います。


 平成18年に大気指針値が設定された1,2-ジクロロエタンは、人に対する発がん性が疑われるものの、疫学研究の結果からはリスク評価に適したデータがなかったため、ラットを用いた発がん試験データからリスク評価値の算出を行いました。算出には、がんだけでなく良性の腫瘍の発生も含めた雌ラットの乳腺腫瘍のデータに薬物等の用量反応関係を表す多段階モデルを当てはめ、近年国際機関や米国を始めとする諸外国で取り入れられているベンチマークドース法を用いました。化学物質の曝露がないときに比べて、がんの発生が一定の割合、たとえば10 % (注2)増加するのに相当するドース(用量:曝露量のこと)ベンチマークドースを求め、その用量、あるいはさらにその用量の下側信頼限界(95 % 信頼限界を用いることが多い)の値をPOD(point of departure: 出発点)として、それより低用量におけるリスクの程度を推測する方法です。


「ベンチマークドース法によるリスク評価の例(大気中の1,2-ジクロロエタンによる発がんリスク推定のための用量反応モデル曲線)」を示した図
図1:ベンチマークドース法によるリスク評価の例
大気中の1,2-ジクロロエタンによる発がんリスク

 大気中の化学物質は、その大部分が呼吸器からの吸入により生体に取り込まれます。この場合、ベンチマークドースは濃度の単位で表されます。1,2-ジクロロエタンを 1日6時間、1週間に5日ラットに吸入させた実験より算出されたベンチマーク濃度(10 % 過剰腫瘍発生推定濃度)を連続曝露のものに補正し、さらに人同等濃度への変換を行ったのち、単位濃度あたりのリスク(ユニットリスク)を求めます。 1,2-ジクロロエタンのユニットリスクは1 μg/m3あたり6.3×10-6と計算されました。これは1 μg/m3の濃度の1,2-ジクロロエタンを生涯にわたって吸入すると仮定した場合に、この物質の曝露が全くない場合と比べて、がんに罹患する人が100万人で6.3人増加するという推測を示しています。これよりリスクレベルが10-5(10万人に1人)となる濃度は1.6 μg/m3と計算されます。中央環境審議会でリスク評価値としての検討が行われた後、この値が大気環境指針値として設定されました。


 環境中に存在する化学物質の健康リスク評価は、得られる知見が限られる中でさまざまな仮定や予測を交えて行われ、その評価が正しいかどうかを確かめることはなかなかできません。目標値が設定され、対策がとられると、環境中の濃度値は低く抑えられるようになり、予測したリスクが変わることもあります。しかし、環境中の化学物質のリスクを完全にゼロにすることは不可能です。私たちはさまざまな化学物質の恩恵を受けて生活しています。だからこそ、人々の安全と健康のために精度の高いリスク評価を目指したいと考えています。

注1  曝露 : 化学物質や物理的刺激(健康に有害な要因)などに生体がさらされることをいいます。

注2  BMR : (benchmark response:ベンチマーク応答)という影響発生の一定の応答レベルを表す。毒性の種類や用量反応関係のタイプにより、5 % や1 % の値を用いる場合もある。


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