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アーカイブ集(Meiのひろば:生物のひろば)


05. 貧酸素水塊が東京湾の底棲魚介類に及ぼす影響

児玉 圭太

東京湾の環境と底棲魚介類

 東京湾は首都圏に隣接する内湾で、かつては"江戸前"の魚介類を育む生物生産性が高い海域でした。しかし、第二次世界大戦後の復興にともなう首都圏エリアの発展や沿岸開発にともなう水質悪化や埋め立てによる干潟消失が進み、1970年前後には「死の海」と呼ばれるまでに環境が悪化しました。このため、水質汚濁防止法の制定や、同法に基づく水質総量規制制度の導入など、環境改善に向けた取り組みがこれまでになされてきました。その結果、東京湾に流れ込む栄養塩類(窒素・リン)や、有機汚濁の指標である化学的酸素要求量(COD)の負荷量は減少傾向にあります。
 環境の改善にともない、海底付近に生活している底棲魚介類の生物量はどのように変化したのでしょうか。試験底曳による底棲魚介類の調査結果(*1,2)によると、シャコやマコガレイなどの水産有用種を含む小~中型の体サイズの種の生物量は1970~1980年代に増加し、1980年代末から1990年代にかけて激減しました。2000年代に入ると優占種の組成に変化がみられ、スズキやサメ・エイ類といった一部の大型の魚類の生物量が増加しています。一方、小~中型の魚介類の生物量に回復の兆しがみられません。この結果は、湾内への栄養塩や有機汚濁の流入負荷量が減少しても、魚介類の生物相全体の回復につながっていないことを示しています。
 生物相の変動は漁業に影響をおよぼしています。東京湾の底棲魚介類の主要種であるシャコは、「小柴のシャコ」というブランドで市場に流通しており、地域漁業を支える重要な生物でした。しかし、生物量が激減して漁業が継続できない状況に陥ってしまいました。漁業者は2005年の冬から自主的な休漁を続けていますが、シャコの生物量には一向に回復の兆しはみられません。このことは、漁業による乱獲がシャコ減少の主要因でないことを示唆しています。東京湾のシャコの生物量が回復しない原因を探るため、私たちは東京湾の環境とシャコの生物学的特性についての調査研究を行ってきました。その結果、貧酸素水塊がシャコの生物量の回復を妨げている可能性が高いことが分かってきました。


貧酸素水塊

「貧酸素水塊発生のしくみ」を示した図
図1:貧酸素水塊発生のしくみ 気温が上昇する季節には、表層と底層の間で水温や塩分など海水の性質が異なる成層状態となる.海底では微生物が酸素を消費しながら有機物を分解しているが、成層が形成されると表層から底層への酸素供給が途絶えるため、次第に底層の溶存酸素濃度が低下してゆき、貧酸素水塊が形成される. [クリック拡大]
「貧酸素水塊と底棲魚介類の空間分布」を示した図
図2:貧酸素水塊(グレーの部分)と底棲魚介類(赤丸、大きいほど量が多い)の空間分布 ×印は生物が存在しなかった地点.8月には北部海域は貧酸素水塊に覆われ、生物が棲息できない無生物域(黄色)となる. [クリック拡大]

 貧酸素水塊とは溶存酸素の濃度が著しく低下した水のことです。貧酸素水塊は、海水の物理的性質の季節的な変化と、富栄養化にともなう海底の有機汚濁、という2つの要因によって発生します(図1)。春から秋の期間には気温の上昇にともなって海水表層の水温も上昇しますが、底層の水温は表層ほど大きく上昇しません。また、夏から秋にかけて降雨量の増加にともない河川からの淡水流入量が増加し、表層の塩分が低下します。水の比重は水温が高いほど、また塩分が低いほど小さくなります。したがって、表層には高水温低塩分の軽い水、底層には低水温高塩分の重い水、というように表層と底層の水の性質が異なるため互いに混合しにくくなる状態が形成されます。この状態を成層と呼びます。身近な例では、家庭のお風呂の浴槽でも成層現象(上が温かく下が冷たい状態)が起こります。
 成層ができると表層と底層の海水循環が滞るため、大気から海水へ溶け込んだ酸素や植物プランクトンの光合成で作られた酸素が、表層から底層に供給されなくなってしまいます。一方、海底には表層で増殖した植物プランクトンの死骸などの有機物が沈降し、過去に堆積したものも含めて多量の有機物が海底の泥に存在しています。この有機物は微生物により分解されますが、その過程で酸素が消費されます。しかし、成層が形成されていると表層から底層への酸素供給が滞るため、底層の酸素が尽き果ててしまい、貧酸素水塊が形成されます。東京湾では貧酸素水塊は海底の有機汚濁が進行した北部海域に頻発し、気温が高く成層状態が強まる夏には湾全域に拡がることもあります。(注)
 酸素が無いということは、生物にとって非常に過酷な環境です。夏の湾北部は、貧酸素水塊が長期間継続して発生するため、ゴカイなどの小型生物から魚やエビ・カニなどの大型生物にいたるまで棲むことができない"無生物域"となってしまいます(図2:*3,4)。また、貧酸素水塊は、生物の棲み処を奪うだけでなく、新たに誕生した次世代の生き残りにも影響します。次に、東京湾の底棲魚介類の主要種であるシャコについて、貧酸素水塊が生まれて間もない時期(生活史初期)の生き残りに影響していることを示した研究結果をご紹介します。

 

貧酸素水塊がシャコの生き残りに及ぼす影響

「シャコの生活史の概略」を示した図
図3:シャコの生活史の概略  [クリック拡大]
「貧酸素水塊と稚シャコの空間分布」を示した図
図4:貧酸素水塊(グレーの部分)と稚シャコ
(赤い四角、大きいほど量が多い)の空間分布
×印は稚シャコが存在しなかった地点. [クリック拡大]

 まず、東京湾のシャコがどのような一生をすごしているのかを見てみましょう(図3)。シャコは春から夏にかけて湾の南部で産卵します。雌親は2~3週間にわたって孵化するまで卵を世話し続けます。孵化した幼生は海中を漂いプランクトンなどの餌を食べながら成長します。幼生は孵化から1~2ヶ月後に変態して親と同じ容姿の稚シャコになり、海底生活を始めます。その後、脱皮しながら成長し、産まれた翌年の夏に成熟し産卵します。また、寿命は4歳です。
 多くの海産生物と同様に、シャコの資源量は卵から稚シャコまでの生活史初期の生き残りによって大きく左右されます。最近の私たちの研究によって、春から秋にかけて発生する貧酸素水塊がシャコの生活史初期の生き残りに影響する可能性があることが分かってきました(*5,6)。東京湾における貧酸素水塊と稚シャコの空間分布を見ると、9月から10月までは北部海域に発生した貧酸素水塊を避けるように貧酸素水塊の外側に稚シャコが生存していました(図4)。11月以降に貧酸素水塊は解消し、稚シャコの分布は湾全域に拡がりました。この結果は、貧酸素水塊が着底直前の幼生または着底直後の稚シャコの生残に悪影響を及ぼしている可能性を示唆しています。今後、飼育実験により幼生・稚シャコの貧酸素耐性を調査し、貧酸素水塊がシャコ資源量の増加を妨げる主な要因であるか検証を進めます。


(注)貧酸素水塊の発生源である海底の有機物量は増加しており(*7)、また有機物を多く含む底泥のエリアも拡大する傾向にあります(*4)。貧酸素水塊が発生すると、有機物を含む底泥から栄養塩が溶け出てきます(河川からの流入など湾の外からの栄養塩負荷に対して、内部負荷と呼ばれます)。その栄養塩により増殖した植物プランクトンが死んで海底に堆積し、再び栄養塩の発生源となる悪循環になります。陸からの有機物および栄養塩の負荷量が減っても貧酸素水塊が解消されないのは、これまでに海底に蓄積した有機物の量(有機汚濁)が膨大であることを示唆しています。貧酸素水塊の発生を低減させるためには、陸からの汚濁負荷の抑制に加え、海底に蓄積した有機物を減らすことも大きな課題の一つです。このため、平成25年5月に策定された「東京湾再生のための行動計画(第二期)」では、海域環境を改善するための施策として底質改善の推進が掲げられています(*8)

【参考資料】

*1 堀口 敏宏 (2005) 東京湾における底棲魚介類の種組成と生物量の変遷. 国立環境研究所ニュース 24(2), 3-6. http://www.nies.go.jp/kanko/news/24/24-2/24-2-02.html

*2  Kodama K, Oyama M, Lee JH, Kume G, Yamaguchi A, Shibata Y, Shiraishi H, Morita M, Shimizu M, Horiguchi T (2010) Drastic and synchronous changes in megabenthic community structure concurrent with environmental variations in a eutrophic coastal bay. Progress in Oceanography 87, 157-167.

*3  Kodama K, Oyama M, Kume G, Serizawa S, Shiraishi H, Shibata Y, Shimizu M, Horiguchi T (2010) Impaired megabenthic community structure caused by summer hypoxia in a eutrophic coastal bay. Ecotoxicology 19, 479-492.

*4  Kodama K, Lee JH, Oyama M, Shiraishi H, Horiguchi T (2012) Disturbance of benthic macrofauna in relation to hypoxia and organic enrichment in a eutrophic coastal bay. Marine Environmental Research 76, 80-89.

*5  Kodama K, Horiguchi T, Kume G, Nagayama S, Shimizu T, Shiraishi H, Morita M, Shimizu M (2004) Effects of hypoxia on early life history of the stomatopod Oratosquilla oratoria in a coastal sea. Marine Ecology Progress Series 324, 197-206.

*6  Kodama K, Oyama M, Lee JH, Akaba Y, Tajima Y, Shimizu T, Shiraishi H, Horiguchi T (2009) Interannual variation in quantitative relationships among egg production and densities of larvae and juveniles of the Japanese mantis shrimp Oratosquilla oratoria in Tokyo Bay, Japan. Fisheries Science 75, 875-886.

*7  中村由行(2011) 堆積物. 「東京湾:人と自然のかかわりの再生」 東京湾海洋環境研究委員会編, 恒星社厚生閣, 東京. 110-117.

*8  東京湾再生推進会議(2013) 東京湾再生のための行動計画(第二期).
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/TB_Renaissance/action_program_2nd.pdf


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