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Ⅴ 平成22年度新規特別研究:事前説明
2.窒素飽和状態にある森林域からの窒素流出量の定量評価および将来予測と削減シナリオの構築

研究目的

窒素飽和とは、大量の窒素化合物が大気経由で慢性的に負荷されることで、森林生態系が窒素過剰状態に陥り、結果として森林域で吸収しきれなくなった窒素が、河川等へ硝酸イオンの形態で溶脱する現象である。これまで窒素飽和研究は、その第一ステップである診断や現象解明が行われ、わが国でも大都市周縁部で窒素飽和が顕在化していることが明らかになった。しかし、それに続く河川や湖沼等流入水域の水質への影響評価や、窒素飽和の改善対策研究はほとんど行われていない。窒素飽和状態が長期間続くと、森林生態系から大量の硝酸イオンが渓流水へと流出するため、本来、水質浄化機能を担う森林域を窒素負荷発生源へと変貌させる危険性を有する。さらに、硝酸イオンと共にカルシウムイオンなど生物に必須な養分元素も溶脱するため、特に母岩からの養分元素供給能の低い地域(例えば花崗岩地域)では、森林の衰退により窒素吸収能が低下し、更に窒素流出負荷量の増大がもたらされる危険がある。これらの実態把握と将来予測を行うことは、森林の持つ水源涵養機能の維持や、新たな湖沼水質保全計画の策定など、今後の流域環境保全に不可欠である。

提案者は事前研究から、同じ高窒素負荷を受ける森林域でも、未間伐な人工林地からは、間伐済みの人工林地より多くの硝酸イオンが渓流水に流出することを明らかにした。わが国では、森林面積の4割を占めるスギ・ヒノキ人工林地の多くが間伐遅れなどによって荒廃していることから、大気由来での慢性的な高窒素負荷に加え、人工林地の荒廃も窒素飽和を引き起こす一因となっていることが示唆される。このメカニズムを明らかにすることは、間伐等適切な森林管理による林内環境の改善が土壌からの硝酸イオン溶脱抑制に与える効果を検証することに繋がるが、そのような研究事例は国内外ともに報告されていない。さらに、現在の森林環境保全の流れを後押しするという社会的観点からも、窒素飽和という問題を通じて林地荒廃・放置林増加に対する新たな警鐘を鳴らすことは重要である。

当研究所では、1984〜89年に筑波山の3つの人工林集水域(筑波山森林試験地)において、窒素を含む主要元素の物質収支調査を実施しており、この時の窒素収支は、既に当試験地が窒素飽和状態にあることを示していた。その25年後の現在、提案者が同じ試験地で行った調査では、荒廃した2つの人工林集水域で、渓流水や地下水中の硝酸イオン濃度が当時と比べ最大で2倍程度増加していた。従って、この森林域では窒素飽和状態が長期間持続しているだけでなく、窒素流出負荷量が増加傾向で推移していることが浮き彫りになってきた。このような研究、つまり、窒素飽和状態が持続している森林域が、河川への窒素負荷発生源としてどの程度寄与し得るかを、過去のデータと比較して定量評価した事例は国内外ともに皆無であり、それが実施可能な本研究によってもたらされる成果は、学術的にも極めて重要である。
以上を踏まえ本研究では、筑波山森林試験地を主な対象として、窒素等の物質収支、林内環境(人工林の混み具合など)、および土壌表層部での窒素動態を調査する。得られた結果より、窒素飽和状態が長期間持続している森林域が、下流河川へと流出している硝酸態窒素量(負荷発生源としての寄与率)を定量評価するとともに、その寄与を更に増大させる要因となる森林衰退の可能性を、土壌におけるカルシウム等の交換性塩基供給能の減少状況から検討する(第一目標)。次いで、人工林地の荒廃と窒素飽和状態の関係性を示すとともに、森林管理(特に間伐等による林内環境の改善)による土壌からの硝酸イオン溶脱の抑制効果とそのメカニズムを明らかにする(第二目標)。最後に、本調査結果に基づく窒素飽和改善シナリオを構築し、その効果予測を森林生態系モデルの統合的利用により提示する(最終目標)。

研究予算

(単位:千円)
  H22 H23 H24
サブテーマ1 6,050 7,350 6,200
サブテーマ2 7,450 6,950 6,300
サブテーマ3 6,500 5,700 7,500
合計 20,000 20,000 20,000
総額 60,000 千円

研究内容

これまで、窒素飽和を引き起こす原因として、大気降下物による慢性的な高窒素負荷に加え、森林域が針葉樹林や高齢林であること(針葉樹の葉面は大気中の窒素化合物を捕集しやすいことや高齢林は窒素吸収量が低いこと)や、表層土壌有機物の炭素/窒素比が小さいこと(土壌微生物が窒素を資化しにくいこと)の影響が指摘されている。一方、提案者はこれまでの研究から、新たな着眼点として、我が国では人工林地の荒廃も窒素飽和の一因であることを示唆する結果を得ている。

これらを踏まえ本提案では、「人工林地の林内環境(林木の混み具合や下層植生状態)が、土壌の窒素貯留能および集水域の窒素利用(植物の吸収や土壌微生物の資化)に影響を与えている」ことを研究仮説とし、①人工林地の荒廃が土壌からの硝酸イオン溶脱を促進し、結果として森林域を下流河川に対する主な窒素負荷発生源へと変貌させていること、その一方で、②適切な施業による人工林地の林内環境の改善は、窒素飽和の緩和・改善をもたらす可能性を有することをそれぞれ検討する。そのため本研究では、窒素飽和と人工林荒廃のいずれも典型事例と見なされる筑波山を対象に、以下の実態解明および改善シナリオに関する研究を行う。

【サブテーマ1】窒素飽和状態にある森林域からの窒素流出負荷量の定量評価

①窒素飽和状態にある森林域から河川への窒素流出負荷量を実測し、過去に比べて森林域からの窒素流出負荷量(発生源としての森林域の寄与率)が増大していることを示す。

筑波山森林試験地を対象に、(1)大気降下物による窒素化合物流入量と、降雨流出時を含めた窒素流出量を調査して窒素収支を算定するとともに、取得データを用いた発生源解析や流出成分分離法による流出解析を行う。本結果を、当試験地における25年前の観測値や、事前研究で得た他地点の窒素流出原単位や流出特性と比較し、窒素飽和状態の持続が、森林域を主な窒素負荷発生源へと変貌させることを定量的に明らかにする。

併せて、霞ヶ浦主要流入河川の下流部を対象に、(2)河川への降雨時の汚濁負荷流出量を調査し、河川水中硝酸イオンに含まれる窒素・酸素の安定同位体比を測定する。得られた結果と同位体比混合モデルを用いて、硝酸態窒素の発生源の特定と、発生源別の窒素流出負荷量の算定を行う。これにより、霞ヶ浦総流入窒素負荷量に対する森林域からの寄与率を定量的に把握し、他の窒素負荷発生源と比べてどの程度卓越しているかを詳細に評価する。

②窒素飽和状態にある森林域で、森林衰退が起きる危険性を把握するため、土壌からの硝酸イオン溶脱に伴うカルシウム溶脱の加速が起きているか検討する。

土壌からの硝酸イオン溶脱はカルシウムイオンといった養分元素の溶脱を伴うため、窒素飽和状態が持続すると、生態系の養分バランスが崩れて林木の生長が阻害され、結果として窒素吸収量低下による窒素流出負荷量の更なる増加を招く恐れがある。ここでは、必須多量元素のカルシウムに着目し、カルシウム供給能の脆弱な花崗岩地域にある筑波山森林試験地を対象に、(1)降水−植生−土壌−渓流水を含むカルシウム収支を算定する。得られたデータを25年前の当試験地でのデータと比較検討することによって、窒素飽和状態の持続がカルシウム収支に及ぼす影響を集水域単位で明らかにする。

さらに、硝酸イオン溶脱量の異なる複数の花崗岩集水域を対象に、(2)土壌中の交換性カルシウム量や塩基飽和度の測定、カルシウム/ストロンチウム比やストロンチウム同位体比をトレーサーとした渓流水中カルシウムの起源推定を行う。これにより窒素飽和状態の持続が、渓流水へのカルシウム流出量を変化させるだけでなく、樹木の利用可能な土壌中のカルシウム量を減少させていることを検証する。

【サブテーマ2】窒素飽和状態と林内環境の関係解明

①窒素飽和状態と林内環境の指標をそれぞれ集水域単位で定量的に把握し、両者の関係解析を通じて森林からの窒素流出負荷量を左右する主な林内環境因子を抽出する。

窒素飽和状態を示す有効な指標として、(1)平水時における渓流水中の硝酸イオン濃度を、筑波山および茨城県の多数の集水域を対象に取得し(一部実施中)、同時に、林内環境の指標となりうる各種データも同じ集水域で新たに取得する。具体的には、針葉樹−広葉樹比(リモートセンシング画像解析による)、人工林の混み具合と下層植生の発達状況(フィールド調査による)、地形(GIS解析による)を取得し、これらと渓流水中の硝酸イオン濃度の関係を統計的に解析し、窒素流出負荷量に影響を及ぼす主要な林内環境因子を抽出する。

②人工林地の荒廃が、土壌中窒素のストックとフローを変化させ、土壌からの硝酸イオン溶脱を促進するメカニズムを実験的に解明する。

大気から森林への窒素負荷量の多い地域(筑波山)と少ない地域(東北大学演習林)で、人工林の管理状況の異なる森林土壌を対象に、(1)土壌中窒素蓄積量を土壌分析(形態別窒素含有量の鉛直分布やC/N比の測定)により、土壌への窒素負荷量を降水やリターの定期観測によって求める。また、(2)表層土壌を採取して窒素無機化活性や硝化活性の測定実験、窒素・酸素安定同位体分析を行い、土壌中の窒素動態を定量化する。得られた土壌の化学的特性(有機物層の発達状況やC/N比)と窒素移動速度の相関関係を明らかにする。その上で、既存の文献値との比較することで、人工林荒廃度合いと大気汚染状態を指標として、土壌からの硝酸イオンの溶脱を促進させるメカニズムを明らかにする。

①、②の結果を踏まえ、慢性的な高窒素負荷環境においても窒素飽和に陥り難い森林環境の具体像を導出し、それに向けた改善のための具体的な管理手法(間伐強度や広葉樹林化)を複数提案する。

【サブテーマ3】窒素飽和改善シナリオの構築とその効果予測

サブテーマ1と2で行う調査・実験データを用いて、国環研と(独)海洋研究開発機構が共同開発中の森林生態系モデルVISIT(Vegetation Integrated Simulator for Trace gases)の土壌中での窒素動態プロセスの改良と検証を行う。また、雨水流出モデルやカルシウム収支モデルとの統合利用を図り、サブテーマ1の結果を基にした“なりゆきシナリオ”の適用によって、窒素飽和状態がさらに持続した場合、森林域の窒素負荷発生源としての寄与は増加するか、カルシウムの欠乏による森林衰退が引き起こされるのかを予測する。また、サブテーマ2の結果から、林内環境の改善と大気汚染状況の改善を想定した窒素飽和の“改善シナリオ”を構築して当モデルへ適用する。これにより、窒素流出や森林衰退について、改善シナリオ、即ち森林生態系における窒素循環の適正化の効果を検証する。

本研究の実施により、窒素飽和状態にある森林域の窒素負荷発生源としての実態を広域かつ定量的に評価可能になる。また、今まで手付かずだった人工林地の荒廃が窒素動態に及ぼす影響を定量化し得るとともに、適切な森林管理が森林から河川への窒素負荷削減に寄与し得ることを実証できる。さらに、窒素飽和に係る環境問題に対して、具体的かつ現実的な改善手法を提示することが可能となる。