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Ⅳ 平成20年度終了特別研究の事後評価
7.化学物質の動態解明のための同位体計測技術に関する研究

研究目的と実施内容

[研究目的]

我々が暮らしている環境中には、多種多様な化学物質が存在しており、直接あるいは間接に我々の健康や生活に影響を与えている。有害な化学物質の環境中における濃度レベルを下げ、長期にわたる安全で快適な生活環境を保持していくためには、問題となる有害物質の主要な発生起源を明らかにし、環境中への放出を抑制する方策をとる必要がある。しかしながら、有害な化学物質の中にはその発生由来が明確なものもある一方、天然の発生源と人間活動に伴う人為的発生源が考えられたり、複数の発生源が想定され、主要な発生起源が分からない化学物質もある。そこで本研究では、発生源により元素の同位体存在度のパターンが異なることを利用した化学物質の発生起源推定方法の確立を目的として、元素の精密かつ化合物選択的な同位体計測技術の開発、改良を行い、実際の環境分析にその方法を応用することを目指す。

[実施内容]

全体計画

現在、環境研究所には、同位体測定用分析機器として加速器質量分析装置(AMS)、同位体測定用誘導結合プラズマ質量分析装置(MC-ICPMS)など分析対象核種が異なるいくつかの質量分析装置が保有されており、また、微量成分などの精密な化学分析を行うための試料前処理用クリーンルームも設置されている。これらの分析装置および設備に、さらに化学物質別の同位体精密分析用の化合物分離、精製システムを構築、導入し、同位体測定用質量分析装置と組み合わせることにより、環境試料中に含まれる多種多様な有機、無機化学物質の同位体存在度の高精度、高感度な計測技術を確立する。同位体分析では、特定の化学物質の分離など試料の前処理において、同位体分別が起きないシステムを作ることが特に重要であり、クロマトグラフなど様々な方法を利用した化学物質の分離、精製法を検討し、分析対象物質ごとに最も適した試料前処理システムを作り上げる。また、同位体測定用質量分析装置についても、微量な試料に対してより高精度な同位体計測ができる分析条件を確立する。

さらに、確立された同位体計測技術を応用して、室内環境中の鉛やアセトアルデヒドなどの汚染物質の同位体分析を行う。実際の環境試料中の金属や化学物質の同位体精密測定から、本研究で開発、改良された同位体計測法の測定精度、応用範囲など分析性能や技術的特性を明らかにして行く。また、同位体存在度の変動を用いた化学物質の発生源の推定など、同位体分析による化学物質の動態解明への応用(同位体環境化学)の有効性について、他の分析手法(局所分析、状態分析など)との組み合わせも含め検討する。

本研究は以下の三つのサブテーマから構成される。

サブテーマ

(1)金属元素の同位体計測に関する研究

同位体測定用誘導結合プラズマ質量分析装置(MC-ICPMS)を用いて、環境試料中の元素同位体比の変動を観測することにより、環境中の有害元素の動態(発生起源の推定など)を明らかにするための計測手法を確立する。水、大気粒子、土壌、食品、生体等の種々の媒体中の異なる変動幅を持つ同位体を計測するためには、各々の測定対象に即した試料調製法、同位体検出手法を策定する必要がある。そのためには、同位体を高濃度マトリクスから分離するクリーンルーム・クリーンアナリシスの技術やイオン交換のような通常の実験操作によって生じる同位体比の人為的変動を抑える分離技術等々が求められる。本研究では、これらの問題を解決して、実用的な同位体ケモメトリクスのための計測手法を確立する。

(2)有機化合物の放射性炭素同位体計測に関する研究

加速器質量分析装置(AMS)を用いて、環境試料中に含まれる有機化合物の放射性炭素同位体比(14C/12C)を測定することにより、環境中の有害化学物質の動態を調べること(発生起源の推定など)を目標に、微量の分析試料(炭素量10 μg)で測定精度1 %の放射性炭素同位体比分析を行う計測方法を確立する。さらに、環境中に存在する様々な有機化合物の中から特定の化学物質だけを選択的に分離して放射性炭素同位体比分析を行うために、取り扱う環境試料と分析対象化学物質に最も適した試料前処理、分離、精製法を作る。特に、大気試料中の有害化学物質成分の分析では、分取キャピラリーガスクロマトグラフシステム(PCGC)を用いた特定化合物(アルデヒド類)の分取法を確立し、化合物選択的な放射性炭素同位体比測定技術を完成させる。

(3)室内環境中の有害金属とアルデヒドの動態解明

本研究により確立された金属元素の同位体計測法および有機化合物の放射性炭素同位体計測法を応用して、室内空気中のアルデヒド、室内の埃(室内塵)に含まれる鉛の分析を行い、室内環境中の有害物質の起源などその動態を調べる。

アセトアルデヒドは室内に比較的高濃度(約20 μg/m3程度)で検出される例が多い化学物質であり、接着剤などに使用されているが、木材からの放散、ストーブでの燃焼などによっても発生する。このように、様々な起源のものが混在するため、放射性炭素同位体比(14C/12C)から発生起源の解明を試みる。また、その他の比較的濃度レベルの高いアルデヒド類についても、同様に14C/12C同位体比よる発生源特定の方法について検討する。

鉛は、その同位体比が発生起源推定に非常に有効な金属である。そこで、室内塵中の鉛と土壌や大気粉塵などの鉛の同位体比測定を行い、室内塵中の鉛の起源推定を行う。また、小児の血液中の鉛同位体比と比較検討することにより、小児の体内への鉛取り込みに対する室内塵の影響について調べる。

室内の埃は様々な物質から構成されており、その化学組成は不均一である。そこで、局所分析や状態分析(顕微蛍光X線分析、粉末X線回折など)により、室内塵粒子の識別と元素分布の状態について調べる(室内塵のキャラクタリゼーション)。こうした分析を同位体比測定結果と組み合わせ、室内環境汚染のメカニズムを明らかにする。

研究予算

(単位:千円)
  H18 H19 H20
(1)金属元素の同位体計測に関する研究 6,000 8,300 7,500
(2)有機化合物の放射性炭素同位体計測に関する研究 4,500 2,300 2,500
(3)室内環境中の有害金属とアルデヒドの動態解明 4,500 4,400 5,000
合計 15,000 15,000 15,000
総額 45,000 千円

研究成果の概要

[サブテーマ 1]金属元素の同位体計測に関する研究

環境中の有害元素、鉛の発生源の推定に資するために、同位体測定用誘導結合プラズマ質量分析装置(MC-ICPMS)を用いて、鉛の安定同位体比を正確、かつ精密に測定するための計測手法の確立を行った。

1.1 分析試料前処理法の検討

鉛同位体測定を行う試料として、多種多様な環境標準物質(動植物、食品などの生物試料、土壌・堆積物などの地質試料、大気粉塵、室内塵、自動車排出粒子などの粒子状試料、焼却灰などの廃棄物試料、尿、毛髪の生体試料及び水試料)を用いた。

分析試料分解法として、酸分解とアルカリ融解法を検討した結果、難分解性鉱物や炭素粒子を含む焼却灰、粉塵と一部の土壌試料については、マイクロ波加熱を用いる酸分解とクリーンルームでの試料処理によって鉛を抽出するスキームを確立した。また、実用的な鉛分離法として、陰イオン交換法、キレート樹脂法、クラウンエーテル法の3方法について検討を行い、生物試料と毛髪などの生体試料、水試料についてはキレート樹脂法、地質試料、粒子状試料、廃棄物試料については陰イオン交換法、尿についてはクラウンエーテル法を適用するスキームを確立した。

1.2 MC-ICPMSによる鉛同位体測定

MC-ICPMSを用いた鉛同位体検出法として、チャンネルトロン検出器を用いたイオン計数法とファラデーカップ検出器を用いたイオン電流測定法を比較検討した。前者は感度に優れているが、測定精度は後者が勝るため、わずかな鉛同位体比の変動を正確に計測するためには、ファラデーカップ検出器を用いた測定が必要であった。また、微量の試料を高精度で分析するため、MC-ICPMSにマイクロフローネブライザーと加熱脱溶媒装置を組み合わせた試料導入系を着装し、最終的に10 ng程度の鉛量で環境試料の同位体変動を論じるだけの測定が可能となった。典型的な同位体比測定精度は、Pb-207/Pb-206で0.015 %、Pb-206/Pb-204で0.08 %であった(20 ngの鉛を用いた測定での標準偏差の2倍)。また、通常導入系を用いた四重極型ICPMS(ICP-QMS)での測定における典型的な必要鉛量は50 ng程度であるため、同位体比計測精度(ICP-QMS:0.2〜0.8 %程度)だけでなく、検出感度においてもMC-ICPMSはICP-QMSと同程度かそれ以上の分析性能を持つと結論された。

MC-ICPMSにより測定された環境標準物質の鉛同位体比の比較から、様々な環境試料中の鉛の同位体比は、有鉛ガソリンの影響を受けた都市域の試料や国産鉛の影響が強い石炭飛灰など幅広い分布を持っていることが明らかとなった。

[サブテーマ 2]有機化合物の放射性炭素同位体計測に関する研究

放射性炭素をトレーサーとして個別の有機化合物の動態を明らかにするためには、微量の炭素量(10 μg)での測定を確立する必要がある。本研究では主に加速器の機械的側面を改良することで、微量で放射性炭素存在比を高精度に測定する方法を確立するとともに、空気中のアルデヒド類の放射性炭素存在比測定法を開発した。

2.1加速器質量分析装置の改良

加速器質量分析装置(AMS)では、固体炭素(グラファイト)をセシウムイオンでスパッタリングすることによって、負の炭素イオン(-1価)を生成する。そこでスパッタリングの効率化による大電流の炭素イオン発生を目指して、(1)セシウムリザーバーと供給パイプのヒーターに安定化電源、可変抵抗器を導入し、その温度制御を高精度化するとともに、(2)セシウム供給パイプの位置を調整、最適化した(イオン源におけるセシウム供給系の改良)。その結果、AMSの通常運転でイオン源から供給可能な炭素ビーム量を約10倍にすることに成功し、10 μg炭素の測定でも、発生するビーム量は6〜8 μAと大幅に増加した。

AMSでは、イオン源で生成した負の炭素ビームを加速電圧ターミナル部で正の炭素ビーム(+4価)に荷電変換することで、2段階の加速を行う。荷電変換の効率は、5 MV程度で最大となることが知られているが、設置されているペレトロン型静電加速器の安定に維持できる電圧は4.5 MV程度であった。そこで、荷電変換部でのトランスミッション効率を向上させるため、加速管を支える構造を従来のルーサイト板から、新設計のアルミ製スパークギャップに変更し、加速電圧の安定化を行った。その結果、加速管を導体とする放電の減少によって、到達可能なターミナル電圧が5 MV程度まで上昇し、4.7 MVでの通常運転が可能となり、12Cイオンビーム透過率が従来の54 %程度から約66 %に改善した。

これらのAMSにおける改良の結果、10 μg炭素における測定精度を1 %以下にするという目標を達成した。この成果は、放射性炭素同位体比測定において、世界の第一線級に肩を並べるものである。

2.2 空気中のアルデヒドの放射性炭素測定

室内空気や大気中の汚染物質であり、発がん性のあるホルムアルデヒド、アセトアルデヒドの起源をAMSによる14C/12C測定によって解析するための試料の前処理法を検討、確立した。空気試料中に含まれる多種多様な含炭素有機化合物のなかから微量のアルデヒド類(μg/m3オーダー)を単離するために、(1)空気の大量サンプリング、(2)アルデヒド選択的吸着剤(2,4-ジニトロフェニルヒドラジン、DNPH)による固相捕集、(3)分取液体クロマトグラフィー(PLC)による分離、(4)分取キャピラリーガスクロマトグラフィー(PCGC)による精製、の4段階についてそれぞれ条件検討し、システムとして確立した。通常のAMS分析に必要な炭素量とわが国の典型的な室内空気中アルデヒド濃度から想定すると、分析には24時間の空気サンプリング(10 L/min)が必要で、本クロマトグラフシステムにより分離、精製したホルムアルデヒド、アセトアルデヒドの純度はそれぞれ98%、93%、回収率はどちらも概ね>90 %であり、AMSによる14C/12C測定に十分なものであった。

[サブテーマ 3]室内環境中の有害金属とアルデヒドの動態解明

3.1 室内空気中のアルデヒドの発生源解析

サブテーマ(2)で確立した空気中アルデヒド類の分離・精製法とAMSによる14C/12C測定を適用し、室内空気中のアルデヒドの発生源に関する検討を行った。首都圏の一般家庭から室内空気をサンプリングし、ホルムアルデヒド、アセトアルデヒドをそれぞれPLC/PCGCによって分離精製、AMSにより14C/12Cを測定した。その結果、ホルムアルデヒドの80 %以上が接着剤、防腐剤など化石燃料由来であるのに対し、アセトアルデヒドは化石燃料由来と現生生物由来(木材などからの寄与)が平均的には3:7の割合であった。本結果から、室内空気中アルデヒド類による発がんリスクを軽減するためには、これまでの対策の主体であった接着剤などの人工化学物質使用量の低減化だけでなく、建材としての木材などからの放散も減じなければならないことが明らかになった。

3.2 血中鉛の起源推定

サブテーマ(1)で確立した鉛同位体測定手法を応用して、日本人小児の鉛暴露源を調べることを目標に、小児2名の血液中鉛同位体比(Pb-207/Pb-206、 Pb-208/Pb-206)と各小児の家庭及びその周辺から採取した室内塵、室外ダスト、土壌、食物の鉛同位体比を、MC-ICPMSによって測定し比較検討した。その結果、2名中1名の小児は血中鉛同位体比が室内塵の同位体比に最も近く、もう1名の血中鉛同位体比は土壌・室内塵と食物の中間の値であった。これらの結果は、日本人小児の鉛摂取源として、これまで食物が主であると考えられてきたが、実は室内塵や土壌の寄与も大きい場合があることを示している。低レベル鉛曝露による小児の認知機能発達への影響が明らかとなり、リスク評価がなされている今、本研究結果は食品中許容量の策定などの際、重要な情報となる。

3.3 室内塵のキャラクタリゼーション

わが国における室内塵の組成に関する最も基礎的な情報を得る目的で、首都圏の一般家庭から収集した掃除機ごみを元に、粒径2 mm以下を室内塵とし、さらに粒径分画して分画毎のPb等重金属類濃度を測定した。その結果、Pb, Cd, Zn, Sn, Sbなどは地殻存在度に比して10倍以上室内塵中に濃縮していること、微小粒径室内塵の方が重金属類濃度が高いこと、などの基礎的情報が得られた。

室内塵中の有害物質含有粒子特定法の例として、顕微蛍光X線法や粉末X線回折法を用いて、高濃度の鉛が検出された一般家庭の室内塵の中から鉛を含有している粒子の特定を行った。顕微蛍光X線分析法による室内塵粒子ごとの元素マッピングからは、鉛を高濃度に含有している薄片状物質が発見され、この物質は鉛以外にもCr、Mo、Baなどを含有していることが確認された。さらに、粉末X線回折分析から、この物質はクロム酸鉛や硫酸バリウムなどの顔料から構成されていることが明らかとなり、剥離した塗料片と推定された。その他の室内塵試料の分析においても、多元素濃度データを基に因子分析を行った結果、室内塵中PbはBa, Cr, Sなどと関連を持ちつつ存在しており、鉛の起源の一つとして塗料が想定された。室内における鉛汚染の原因物質として、塗料以外にも電気製品に使用されているハンダなどが考えられる。この様に、複数の汚染源が推定される室内塵試料の中から、特定の鉛含有粒子を探しだすのに、顕微蛍光X線測定とX線回折法を組み合わせた分析が利用可能で、鉛以外の元素についても汚染原因解明に有効な方法であることが示唆された。